飛田雄一

六甲山をエッセイする 

 1973年春のことだ。当時の国労(国鉄の労働組合)がストライキをした。3日間。私たちはそれに連帯して、徒歩で鹿嶋節子宅、堀内稔宅をはしごして、マージャンをした。わたしたちは賭けもせずにしていた。よくそんなことができるなと、バカにされていた。

 早朝の帰路、阪急六甲から山を見た。新緑がきれいだった。ほんとにきれいだった。感動した。そして、六甲山に登ろうと思った。

 子どものときから、山にはよく登っている。兵庫区都由乃町に住んでいたときは、すぐ裏山の菊水山などだ。当時はゴルフ場もなかった。あの、きつい階段もなかった。どこからでも登れた。競争して走っておりたこともある。いまは、こわくてそんなことは、できない。

 中学校では、毎年「耐寒遠足」というのがあった。新神戸から摩耶山、王子公園までの20キロ歩いた。当時は楽勝だった。

 マージャン明けの新緑に感動した私。また六甲山に登り始めた。

 

※久しぶりのブログアップ。が、うまくいかない。文字数が多すぎるのか?

 以下、hida-rokko-esseisuru.pdf をごらんください。

 

 


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飛田雄一

姫路・福知山・京都への「ICOCA旅」

JR遠回りの旅<その1>

(以下に冊子を貼っています。hida-jr-01.pdf

 

 

鉄ちゃんの師匠・溝口駅長の本/六甲道から出発です

   

姫路駅のかっこいい蕎麦屋さんです/こんな駅弁をかってしまいました

 

六甲道発、住吉着。JR遠回り。行ってきました。快晴、快適、大満足。

朝10時から夕方6時。7時間の旅でした。(2025年10月23日)

料金は、150円。JRさん、ありがとうございました。感謝です。

 

例えば鶴橋から桃谷への切符を買って、大阪、福島、天王寺経由で鶴橋に行く。環状線を一回りしてもOK。鶴橋・桃谷の料金でいい。

 

兵庫では、加古川線が有名だ。

六甲道・住吉の切符を150円で買う。

その切符で、六甲道、加古川、谷上、篠山、尼崎、住吉と回る。

桜の季節には、とくに人気があるそうだ。

 

さらに、ICOCAカードでも、それがOK。カード利用できる駅のあいだではOKとのこと。

私の「鉄ちゃん」師匠・「溝口駅長」が教えてくれた。

 

駅長の冊子『JR大回りの教科書』を愛読している。

(無料ですが、コピー希望者は、溝口駅長のホームページ https://noritetsu.net/omawari/ で正式に申し込んでください。)

それによると、先の加古川線より更に大回りできるとのこと。

いずれにしても、路線の「一筆書き」が必要だ。

一か所でも交差してはいけない。

 

六甲道、姫路、和田山、福知山、園部、京都、大阪、住吉でトライした。

完走した。問題なかった。うれしい。

 

溝口駅長の冊子に、モデルコースとして紹介されている。大阪発、新大阪着。

大阪、神戸、姫路、和田山、福知山、園部、京都、新大阪のコース。

下図の赤いコースだ。

私は、このコースを、六甲道発、住吉着でトライした。

 

 

この赤いコース、六甲道よりスタートして住吉に帰ってきました

 

でも、いざ実行となると不安になった。1か月ほど前に六甲道で聞いた。

「大丈夫ですよ。住吉駅で出るとき、時間がかかっているので、

遠回りしたことを言った方がいいですよ」とのこと。

OKなのだ。安心した。

 

同冊子には、「大回り乗車は不正乗車ではありませんが、歓迎される乗り方ではないことも確かです。少額の運賃で長距離を乗せてもらうわけですから、JRに感謝するとともに、駅員、車掌に迷惑をかけないようにマナーを守って楽しんでください」とある。

 

ネットおよび時刻表で計画をたてた。以下のとおりだ。

 

六甲道1015発

三宮 1019着、1023発

姫路 1103着、1132発

寺前 1213着、1248発

和田山1340着、1354発

福知山1436着、1453発

園部 1614着、1617発

京都 1653着、1659発

芦屋 1743着、1745発

住吉 1752着。

 

六甲道から乗車した。ワクワクだ。

ウオークマン(KENWOOD)、新聞、雑誌、本をもちこんだ。

サンドイッチもつくった。保温ボトルにスープもいれた。

 

姫路に着いた。ホームに、かっこいい蕎麦屋がある。

食べたかったが、まだ早いのでパス。

 

姫路から播但線に乗り換える。専門の改札がある。

が、そこにICOCAカードを入れてはいけない。

遠回りしていることを告げると、そのまま通過できた。

サンドイッチを持参しているのに、「地球の歩き方・兵庫弁当」を買ってしまった。

1480円。ふんぱつした。

 

播但線は、すてきな田園風景がひろがる。

柿が実もたわわだ。このあたりは熊がでないのでそのままなのか。

これが平和な風景なのかと思った。昨今の熊はほんとにかわいそうだ。

 

柿をたくさんとって、たくさん干柿を作りたい。

私は、皮をむくのが好きだ。

 

寺前駅に着いた。ここで待ち時間35分。

駅のベンチで弁当を食べようと思っていた。

が、すでに和田山行きの列車が入っている。

4人ボックス席の列車ですいている。

さっそく、乗り込んで兵庫弁当を食べた。おいしかった。

 

生野峠を越える。生野峠は、サイクリングでは難所。

以前、慈(うつみ)憲一さんと、姫路・城崎のサイクリングに行った。

元気組は姫路から。次のグループは福崎から。

私は、播但線の最高峰・生野からの出発だった。

快適なサイクリングだった。

 

和田山に着く。トイレが、改札の外にしかない。

訳をいうと、通してくれた。やさしい。

 

福知山に着いた。かわいいお城が見える(失礼しました)。

福知山教会で、叔母・飛田悦子さんが牧師をしていたことがある。

(『叔母・飛田悦子―その牧会人生―』を今年作った。

 https://ksyc.jp/mukuge/hida-etuko4.pdf 好評発売中?)

 

福知山から京都の山陰線、快速電車に乗った。

この路線、初めてだ。たぶん。駅名になじみがない。

 

そして、京都。そして、住吉。

本を読んだり、CDを聞いたり。

新聞は2紙買ったのに、1紙か読めなかった。

立川志の輔も2席、聞けただけだ。

 

住吉で、遠回りの旨を伝える。

カードを点検して、「150円分だけいただきます」とのこと。

もちろん、異存はない。

 

あとで、ICOCAカードの履歴を調べてみた。

「入場六甲道」「窓消住吉」「窓精住吉150」とあった。

 

遠回り、おもしろい。やみつきになりそうだ。

溝口駅長の「北近畿コース」お勧めの次のコースは、ぜひ、行きたい。

・    大阪発、福島着、「広大な琵琶湖を眺め、伊勢路をまわるコース」6時間37分

・    新大阪発、大阪着、「万葉まほろば線と和歌山線をまわるコース」6時間06分

 

東京圏もすごい。行きたい。

・    東京発、秋葉原着、「房総半島をぐるり! 海景色満喫コース」7時間31分

・    東京発、秋葉原着、「鶴見線と西関東をまわる小一日コース」7時間08分

 

サンドイッチとスープジャー/ICOCAの利用履歴

 

今回、兵庫駅弁を買ってしまったので、自作のサンドイッチを家までもってかえってしまった。次回は、気をつけたい。実は、スープジャーも忘れていったのだ。反省。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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飛田雄一

姫路・福知山・京都への「ICOCA旅」

JR遠回りの旅<その1>

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2025年10月25日発行

執筆・編集・印刷・発行 飛田雄一(ひだ ゆういち)

〒657-0011神戸市灘区鶴甲4-3-18-205

e-mail hida@ksyc.jp

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飛田雄一

新大阪・奈良・和歌山・大阪への「ICOCA旅」

JR遠回りの旅<その2>

hida-jr-02.pdf

(最近このブログ、http://blog.goo.ne.jp/hidayuichi/ への書き込みがうまくいなかいのす。?)

 

 

新大阪駅からスタート。(2026年1月15日)

第2弾で、だいぶ余裕がある?

以下のスケジュール。ほぼ予定通りに完遂した。うれしい。

 

新大阪 11:11発

(おおさか東線、32分)

久宝寺 11:43着

〃   11:51発

(大和路快速、27分)

奈良  12:18着

〃   12:24発

(桜井線、まほろば、44分)

高田  13:08着

〃   13:25発

(2時間5分)

和歌山 15:35分着

〃   15:55発

(紀州路快速、2時間5分)

大阪  17:40着

 

いろんな道具、本をもって行った。のに、新大阪で落語の本を買ってしまった。道中、本はこれを読んだだけだった。あとは、なにをしとっただって、それが、けっこう忙しかった。

 

写真、左上から、溝口駅長『遠回り教科書』、『人権歴史マップ』、ウオークマン(KENWOOD)、『時刻表』、内海愛子『スガモプリズン』、立川志の輔編『古典落語100席』、そして、人気ナンバーワンのカニ弁当。

 

弁当は、鳥取県。父の出身が鳥取県。私も結婚するまで本籍が「鳥取県日野郡日野町根雨」。番地まで覚えていた。それなりにおいしかった。

 

 

 

今回のコース。溝口駅長によると180円チケットでもICOCAでもOKとのこと。私はICOCAで行った。

 

「おおさか東線」、私は初めてだ。新大阪駅から北上してから放出(はなてん)に向かうコース。想像できなかった。放出は昨年、友人の慎英弘さんと待ち合わせてカラオケにいったところだ。初めてだった。

 

はじめてづくしのおおさか東線で、久宝寺。このあとのコースがややこしい。溝口駅長の教科書の略図では、以下のとおり。

 

 

この略図と1頁の地図を比べてみていただいたら、その複雑さが理解していただけると思う。1頁の地図は登山地図の「金剛・葛城」。その山々を見ながらの旅でもあった。そのうち、登りたい。

 

久宝寺から王子をとおりこして奈良へ。奈良から高田まで。高田から王子発の和歌山行きに乗る。進行方向がごちゃごちゃになる。私に質問する客も多かったが、それは、無理。

 

奈良・高田間は、座席が向かい合わせの電車。カニ弁当が食べづらい。高田・和歌山間も同じスタイルの電車。ここでくじけてはいけない。客が少なくなったところで食した。食べ終わったら女子高校生がどかっと乗ってきた。よかった。

 

読めない駅名もあった。「京終」、分かりますか? 「きょうばて」。「帯解」、「おびとけ」。こりゃ、なんだ。どこでどうして帯が解けたというのか。

 

「サイクルトレイン」の掲示があった。自転車をケースにいれずにそのまま載せられるのだ。とてもいい。でも、自転車をここまで持ってくるのが大変だ。

 

神戸から阪神電車で直接奈良に乗り入れOKとなって、輪行で奈良までサイクリングに来たことがある。まあ、簡単だった。

 

また、奈良から木津川、淀川を走り、神戸まで走ったこともある。155キロ。私の最高記録だ。いまは、無理だ。いまは、もっぱら電動自転車派になっている。

 

本。けっきょく落語の本を少し読んだだけだ。あとは、志の輔の落語を聴いていた。志の輔創作落語の傑作「みどりの窓口」がよかった。もう、10回ぐらい聴いてる?

 

みどりの窓口、六甲道駅もなくなった。ジパング倶楽部のチケットを買うのにネット越しの対話をしなければならない。でも、愛用している。しかたない。

 

今回の難所は、和歌山駅。溝口駅長も注意を喚起している。

駅内に改札があるのだ。これを普通に通ったら、もともこも、ない。

しかもそこは無人だ。インタホンで、事情を説明して、通してもらった。

 

 

 

 

最後は、大阪駅。なにしろ朝乗って夕方にでるのだから、機械をとおしたらNG。「遠回りしてきました」と説明するのだ。

 

今回の駅員は、まじめだった。

路線図をみながら、私の説明を聞くのだ。

「新大阪から、おおさか東線、放出、久宝寺、奈良、高田、和歌山と回ってきました」

 

あきれたように、「ほんとだ」という感じでOKとなった。

ICOCAの新大阪での入場記録を削除してくれた。そして、大阪駅の改札を180円ででたのでありました。JRさん、ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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飛田雄一

新大阪・奈良・和歌山・大阪への「ICOCA旅」

JR遠回りの旅<その2>

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2026年1月17日発行

執筆・編集・印刷・発行 飛田雄一(ひだ ゆういち)

〒657-0011神戸市灘区鶴甲4-3-18-205

e-mail hida@ksyc.jp

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続・極私的市民運動の記録

<その3>市民運動とパソコンたち 

 一九九五年の阪神淡路大震災のとき、パソコンは、始まってまだ一〇年ほど。インターネットはぜんぜんで、ニフティのパソコン通信が始まって二、三年というときだった。

 携帯電話もほとんどなく、東京からボランティアで来た当時NCC幹事の八幡明彦さんが持ってきたのを珍しがってた。それ以前は弁当箱のように?大きいもので、「自動車電話」を持ち出して使っているという時期だ。

 私は、地震の三、四年前、盲腸で入院した。そのとき、学生センター御用達のガソリンスタンドから、携帯電話を借りて使っていた。初めての入院生活を楽しんでいた。

 入院での唯一のトラブルは、私は麻酔アレルギーであることだった。高校の器械体操時代、平行棒から落ちて五針ほどぬった。それはたいしたことなかったが、その後、全身蕁麻疹、そしてぜんそくがでた。キシロカインという部分麻酔薬アレルギーなのだった。

 盲腸のときそのことを医者に話した。「全身麻酔にしましょう」となった。医者も怖かったようだ。手術はすぐ(知らんけど)終わった。目が覚めたら、部屋まで歩いて帰りなさいとのこと。それが最初のリハビリとのことだった。病室に無事帰ることができた。

 

 ちょっと脱線した。パソコンにもどる。

 学生センターには一九九二、三年ごろパソコンが入った。NEC9801。本体が一二〇万円、その他ソフトが五〇万円という値段だった。ひらがなが漢字に変わるのにびっくりした。いまから考えると遅いが。

 ワープロソフトは、管理工学の「松」だった。もう、分かる人がいないかもしれない。ワープロソフトは、一太郎と松の一騎打ちだったのだ。マイクロソフトは、まだメインではなかった。

 名簿整理のソフトを業者に頼んで五〇万円支払った。学生センターの各種セミナーの名簿管理ソフトを依頼した。何回か打ち合わせをしたが、思うようなものができない。全名簿のなかから食品公害セミナーの参加者だけを選んでリストをつくり宛名をラベル印刷する。こういうことができないのだ。できないというより、それをソフト会社にいちいち指示しなければならなかった。

 あきらめた。そして、同じく管理工学のデータベースソフト「桐」を買った。業者との打ち合わせでしたかったことを自分でやってみた。できた。うれしかった。その後、五〇年間、いまだに学生センターの名簿管理ソフトは「桐」だ。セミナーの数がいくら途中から増えても大丈夫。講師か受講生かのチェックもOK。新しい市民グループができても、その名簿を共有することもOK。条件をつけて選んだ人の宛名ラベルを印刷することも可能だ。むくげ通信などは、「あなたの購読料は今号で切れます」とラベルに印刷することもOK。

 いちばんの省エネは、宛名ラベルに工夫をして、宛名といっしょに発信者の連絡先をいれることもOK。これがけっこう便利だ。むかしのように「ハンコ」をつくる必要もない。

 賛助会費を誰が何時なんぼくださったかも記録がある(ごめんなさいね)。数年に一度、そのデータをもとに?名簿整理もできる。五〇万円は高い授業料だったが、もとはとらせてもらった。

 

 ちょうどそのころ、ハングルソフトがでてきた。大阪の僑文社?高電社?が開発した(未確認です)。それ以前のハングルは、パッチムの扱いが超難題だった。説明がむつかしい。以前のハングルタイプライターでは、パッチムをうつときは少しもどしてその文字の下に打つのだ。二重パッチムのときなどたいへんだ。

 しかし、ハングルワープロはその問題を解決した。ただただハングルを順番に打ち込めばいいのだ。あとは、パソコンがそれがパッチムであるかどうかを判断してくれるのだ。分ってほしいが、ほんとうにすごい発明なのだ。

 高かった。でも、学生センターで使ってくださいとデモ機がきた。使った。

 ちょうど、むくげの会で『むくげ愛唱歌集』(一九八五年)を作っているときだった。南北朝鮮の歌謡曲から民謡、歌曲まで一〇六曲を収録したものだ。目次担当は私だった。で、そのデモ機をフル活用して作った。当時は、二四ドットのプリンター。目は粗いが上々の出来だ。むくげの会の本としては、よくうれた。増刷もした。出版記念会では、二次会もあわせて収録の一〇六曲を全部歌った。すごい! いま在庫はない。ご希望の方には複写版を販売している。

 

 NEC九八〇一には、五インチのフロッピーディスクがついていた。その後、3.3インチになった。当時、7インチのものもあったのだ。ほぼCDの大きさだ。

 それで、前述の「松」「桐」を使っていた。スピードは、遅い。まさに、ガタンガタンと音を出すのだ。内臓メモーリが少ないので、データは、5インチのディスクへ。友人の近藤富男さんは、名簿のデータ整理をするのに、パソコンが一晩、寝ずに、朝までガチャガチャと動いていた、と。

 そのうち、ハングルソフトも買ったが、それも5インチディスクでの提供。立ち上がるのに、七、八分かかった。もうやってられない、と思った。そのころ?、外付けハードディスクが出た。今では考えられないが、価格は一MB、一万円。一〇メガ一〇万円だ。買った。それにハングルソフトなどを入れて、使った。そのハードディスクのおかげで、なんとか使えたのだ。

 基本ソフトは、MSDOS。むつかしい。当時、学生センター内「食品公害を追放し安全な食べものを求める会」専従の稲田登さんがけっこう詳しかった。ずいぶん助けてもらった。私は、MSDOSは無理だ。そのうちソフトが一般人に近づいてくる。すなわち、基本ソフトを操らなくても、できるようになるという説だった。そのとおりになった。MSDOSを勉強しなくてよかった。ほかにも、プロトコルとかいろいろあったが、プログラムには手をださなかった(手も足もでなかった)。

 

 その「九八〇一」も終了し、新しいパソコンがきた。学生センターのパソコンも個人のパソコンも定期的に更新することになる。腹がたつが、仕方がないのだ。

 阪神淡路大震災(一九九五年)のときには、インターネットはほとんどなかった。ニフティサーブのグループが始まっていたぐらいだ。私も少しはそれをしていた。在日コリアン関係のグループもあって堀内稔さんは投稿などもしていた。震災時のボランティア、寄付金募集などに利用した。

 でもまだFAXの時代、ボランティアは、朝から晩までFAXを送っていた。すでに、「市民運動と印刷機たち」で書いたとおりである。

 学生センターのホームページも早いほうだった。これは、だいぶ研究した。『ワードでつくる、いとうまいこのホームページ』なんて本を買って読んだ。「ホームページビルダー」もつかっていた。

 その後、プロにホームページを依頼することになった。

 現在は、独自ドメイン「https://ksyc.jp」をとって、きれいなホームページができあがっている。が、実はそのドメインの下にけっこうな数のホームページがある。こんな感じだ。

 

・むくげの会

・アジア労働者交流集会

・外国人の生存権を実現する会(ゴドウィン裁判)

・新ガイドラインと有事立法に反対する兵庫共同アピールの会

・神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会

・神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会

・神戸日本語教育協議会 KECJL

・神戸 平和マップをつくる会

・神戸大学YMCA

・市民がつくる神戸市白書委員会

・朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会世話人会

・強制動員真相究明ネットワーク

・松田妙子『日本人的一少女』

・神戸・南京をむすぶ会

・日本キリスト教協議会・都市農村宣教委員会(NCC-URM委員会)

・六甲アーカイブ

・青丘文庫研究会

・SCM協力委員会

・多民族共生教育フォーラム・2005

・神戸空襲を記録する会

 

 これらは、私が作っている。デザインは悪いが内容は充実している?

 開店休業中のホームページもある。とりえず新しい活動が始まるとそのホームページをつくってチラシなどを貼り付けるという方式だ。学生センター本体のホームページと別に、飛田が管理して貼り付けられるようにしている。ホームページ作成を人に依頼すると、更新がけっこうむつかしいという面もある。

 ホームページの失敗も多い。新しいものと古いものがごちゃごちゃになってこまったこともある。むくげの会「略史」の基本データを消してしまい、山根俊郎さんに助けてもらったこともある。ちなみにむくげ略史の時代区分は、以下のとおりである。なにしも五〇年以上続いている会なのでいろいろある。時代区分は夫婦関係のようであるが、深い意味はない。

 

 草創期、一九七一年~

 大躍進期、九七五年~

 円熟期、一九八二年~

 倦怠期ないし第二次躍進期、一九八七年~

 震災ショック+第2期黄金期?、一九九五年~

 海外飛躍期+むくげ旅行グループ化期、二〇〇六年~現在

 

 コロナはあらゆる市民運動に影響をあたえた。甚大だった。

 しかたなく、ZOOMを始めた。無料のZOOMは四〇分できれる。これは具合が悪い。しかたなくライセンスをとった。月二二〇〇円。

 強制動員真相究明ネットワークもZOOM会議が多くなった。むくげの会もけっこう使った。ZOOMは、たとえばゲストディに海外のゲストを招くときには便利だ。

 最初ZOOMに慣れなかった。自分が主催するZOOM会議のときは、緊張した。失敗すると会議が流れてしまう。慣れると楽になった。楽になってZOOM会議を忘れ、真相究明ネットの事務局長・中田光信さんから電話がかかってきたこともある。家にいてて、よかった。

 コロナ後もZOOM会議が多くなった。でも味気ない。当初、ZOOMで「かんぱーい!」などとやっていたが、あほらしくてやめた。対面の、会議・はなしあい・宴会がいい。

 NGO神戸外国人救援ネットが「北野町のユダヤ人」をテーマに、講演会(金子マーティンさん)とフィールドワークをしたことがある。そのとき、FMわぃわぃの若者がフィールドワークも生中継してくれた。いや、すごい。真相究明ネットも対面+ZOOMの講演会、大会を開くが若い事務局員・有田光希さんがばっちりとしてくれる。うれしい。

 さいきんは、私もZOOM会議の司会になれてきた。髪の毛を多く見せる角度もわかってきた? 途中でチャットが入ってもOK。犬猫のうるさいメンバーをつきとめてミュートにすることもお手のものだ。でも、対面がいい。

 

 二年前、パソコンがこわれた。リックから落ちたのだ。チャックを閉めずに自転車にのった。ブレーキをかけたら、落ちてしまった。目の前がまっくら。パソコンの画面もまっくらになった。

 パソコンも大事だが、データも大事だ。いろいろさわっていると、キーボードと液晶との接触がほぼ断線しているようだ。五センチだけあけると液晶がみえる。それ以上あけると、画面は消える。その五センチを利用して、データを救出した。肩は凝り、目がひきつった。ノートパソコンによくある?故障のようだ。新しいパソコンをかって再スタートした。ハードディスクではなくてSSD、快適だ。この際と、SSD、一TBのものを二TBにした。けっこう容量があって安心?だ。

 学生センターには大きなサーバーがあり基本的なデータはそこにある。が、二〇二二年の退職後、センターでも自宅でもノートパソコンで作業をすることにした。トラブルが起こった。データをセンターのサーバーに保存していなかったのだ。いまは、センターと自宅の外付けSSDに保存している。でも、作業中のものに限ってトラブルがおこって、一日の作業が無に帰すことになる。誰を恨むこともできない。よけい精神衛生上、わるい。パソコンは、おそろしくて、むかしのテレビのようにはたたけない。

 でも、パソコンはともだち。仲良くするほかない。コロナで始めた市民運動記録エッセイ、いまも、せっせとノートパソコンで打っている。はい。以上、第三話でした。 

 

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飛田雄一「続・極私的市民運動の記録」

<その3>市民運動とパソコンたち

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2025年9月5日発行

執筆・編集・印刷・発行 飛田雄一(ひだ ゆういち)

〒657-0011神戸市灘区鶴甲4-3-18-205

e-mail hida@ksyc.jp

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続・極私的市民運動の記録

<その2>広島で被爆・孫振斗さんの裁判 

 一九七〇年一二月三日、孫振斗(ソンチンヅウ)さんは、釜山から佐賀県唐津にやってきた。「密航」だ。捕まった。普通は、大村収容所に送られて強制送還される。

 が、孫さんは、マスコミの知るところとなった。新聞にでた。「私は被爆者だ。元の体にもどしてほしい」

 そのマスコミは、後に広島市長になった平岡敬さんらだ。孫さんを支援するグループが福岡、長崎、広島、大阪、京都、東京にできた。全国連絡会的組織?もいちおうできた。私の孫振斗ダンボールをみたら、各地の通信がだいぶ?残っている。全国連の通信もある。一五年ほど前、岡山大学の高谷幸さんが見たいというのでダンボールごとお貸しした。全部、PDFファイルにしてくださった。PDFファイルになるとホームページにアップしやすくなるので、そのうち?「六甲アーカイブ」にアップしようなかと考えている。

 京都のグループは、当時学生だった市場淳子さんたちだ。いま、韓国の原爆被害者を救援する市民の会を代表されている。その市民の会のために二年前文章を書いた。

 

「市民の会の最初のころ

 市民の会50年、もう半世紀前のことなのですね。私は学生時代に孫振斗さんの支援運動にかかわりました。その続き(?)だったのでしょうか、市民の会の最初のころにウロウロしていたのだと思います。

 もとよし(元吉?)代表が神戸の方で、神戸での会議も多かったように思います。事務局の中心メンバーであった松井義子さん、関藤仁志さんらが無教会のクリスチャンだったように思います。関藤さんは、神戸学生青年センターにも関係がある方で、個人的には私の仲人のような方でした。結婚後の新居も関藤さん紹介のアパートで、徒歩一分というところでした。

 市民の会ニュースは、印刷所に依頼するきちんとしたもので、今のパソコン印刷とことなり、校正も同じ字数でおこなうということでした。仮印刷のニュースの上にセロハン紙をおいて、当時朝日新聞の若手記者であった小田川さんが、なれた手つきで校正されていました。どんな会議の流れだったのか、小田川さんの下宿で、猪八戒さんと豚足をほおばった記憶もあります。

 市場淳子さんらは当時孫振斗支援運動の京都グループで、福岡の孫振斗裁判にもいっしょに出かけていたのでしょうか? 韓国援護協会の辛泳洙さん、郭貴勲さんにもお会いする機会の多かったように思います。郭貴勲さん支援の最初のちらし(?)がありましたので添付ファイルで送ります。(二〇二二年四月一二日)」

 

 私は、大阪のグループのメンバーとなった。連絡先は、大阪十三(なんで、じゅうそうと読めるのだろう)の田中裕さん宅。田中宏さんではない。会議は、阪急。服部駅近くのUさんのマンションでしていた。ほぼ毎月一回。泊りがけの時もあったが、神戸に帰ることの方が多かった。当時私は、神戸市垂水区多聞台に住んでいた。JR舞子駅(国鉄だろうな)からバスで二〇分。最終バスが九時ごろだったので帰れず、石屋川(神戸)のむくげの会・堀内稔さんのアパートに泊めてもらった。多いときには、週三回?泊めてもらった。

 孫振斗裁判は、ふたつ。①強制送還をやめさせる、②原爆手帳をもらう、だ。①は、少々ややこしいが、裁判中に強制送還されたらこまるので、「執行停止」裁判も同時並行的にした。この①は、普通は勝てない。孫振斗さんの場合も勝てなかった。が、強制送還はされなかった。その関係はなかなか説明ができないので本エッセイでは省略だ。

 ②が、本来の目的的裁判だ。原爆手帳は、被爆の事実を証明する二名の証言が必要だ。親戚ではいけない。孫さんの場合はすぐに見つかった。あと、厚生省は、「密航者はだめ」「日本に住所がないのでだめ」などと主張していた。

 福岡地方裁判所で一九七五年七月七日、孫さんは勝った。私はその裁判に二か月に一度程度開かれる裁判に傍聴した。大阪グループで平日裁判に行けるのは学生の私だけだった。交通費は、会から半額支給された。先のエッセイで書いた向井孝さんの「切符」のお世話になったこともある。さらに、独自の「キセル乗車」に成功したこともある。独自の方法については、エッセイ「列車、のるかそるか」(二〇二四年一〇月)に書いた。もう時効なので、何を書いてもいい?

 孫振斗裁判は、一九七一年スタート。最初のころ、新幹線はない。夜行列車で帰るときは、下関までいった駅裏の居酒屋で飲んでから、乗ったこともある。時間待ちで、ビールの匂いに寄って来る?蚊に悩まされたこともある。

 新幹線ができてから、大阪、東京グループがいっしょにそれで帰ったこともある。田中宏先生がいっしょだった。当時、食堂車があった。みんなでカレーを食べた。コーヒーだけ田中先生がおごってくれた。田中先生はすべてに合理的な精神の持ち主でそれがとてもいい。割り勘だった。別のキセル乗車のときに、食堂車のいちばん奥の席でねばった?こともある。トイレで、ねばったことも・・・・。

 

 福岡グループの中心人物は、伊藤ルイさん。大杉栄と伊藤野枝の娘だ。一九九六年、ルイさんが亡くなった。追悼文集に私も次の文章を書いた。

 

「人形用の筆をいただいて

 ルイさんとお会いしたのは、孫振斗さんの裁判が始まってからですから、一九七一、二年の頃だと思います。

 当時学生だった私は、裁判の度に福岡の裁判所に出かけ、こんな活動家?のおばさんがいるのかと、ルイさんをながめていました。

『朝鮮研究』に孫さんへの手紙の形で長文の論文を書かれたとき、「手紙の形でしか書けないのよ」と言われていたのも思い出します。ルイさんが、大杉栄と伊藤野枝の子どもであると友人から聞いたのはそれからだいぶたってからです。

 何度かルイさんの仕事場にもお邪魔したことがありますが、一度、タテカン(立看板のこと)をよく書くという話の流れからか、人形用の筆を一本下さいました。人形用の筆が特別であるという講釈も聞きましたが、その内容は忘れてしまいました。よく小学校の習字時間使ったような大きさの筆なのに、大変コシのつよい筆だったことを覚えています。中筆なのに大筆のように、またハケのようにも使える筆でした。神戸学生青年センターの集会の横幕などをずっとその筆で書いていました。さすがに丈夫なその人形筆も寿命がきて、今は残念ながらありません。

 数年前、ルイさんの本を読んでいて私の名前がでてきてびっくりしました。福岡で孫縦斗さん支援のデモあったときの私のシュピレヒコールが、関西弁でとてもよかったと書かれていました。もう四十代後半になってしまった私ですが、七〇年代の青春真っ只中の頃を思い出します。

 阪神淡路大震災のあと、神戸の私を心配してくれて何回も電話をくださったようです。ルイさんはそのことを言われませんでしたが、あとで別の人から聞きました。

 その後、箕面忠魂碑訴訟のついでということで学生センターに寄ってくださいました。ゆっくりとお話することができましたが、それが最後になってしまいました。

 私は、ルイさんが「ガン宣言」をされたことを知りませんでした。五月二十七日にも別の用事で福岡に行きましたが、また今度でいいやとルイさんに連絡しなかったことが悔やまれました。しかし、七月十三日の福岡中部教会での追悼集会に参加して、有川牧師から五月末ごろのルイさんの闘病の様子を伺い、それもよかったのかなあ、と思えるようになりました。病室でお見舞いの友人と会うとその後で体が更につらくなるというお話でした。

「また飛田さんの文章は……」とルイさんに言われそうな追悼文になりました。「ひださん……」という声をもう聞けないのが残念です。

 いつの日か、首尾よく天国で、「あら飛田さん」「あらルイさん」と、声を交わすことができれば嬉しいものです。(神戸市)」(『しのぶぐさ―伊藤ルイ追悼集』一九七七年一月)

 

 孫振斗さんの原爆手帳をめぐる裁判は、一九七八年三月三○日、最高裁で勝訴判決がでた。国側の上告棄却である。私はその後いくつかの裁判にかかわった。が、勝訴は、いまのところこの一件だけだ。この勝訴が、のちの在韓被爆者救済に大きな力となった。 

 

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飛田雄一「続・極私的市民運動の記録」

<その2>広島で被爆・孫振斗さんの裁判

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2025年8月15日発行

執筆・編集・印刷・発行 飛田雄一(ひだ ゆういち)

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