【I】If(もしも、という名の記憶)




夜の灯りは、どこか遠かった。

窓の外に広がるニューヨークの街は、無数の光を抱えながらも、今のキャンディにはどこか現実味を失って見えていた。ガラス越しの景色は静かで、まるで別の世界のように遠い。

ふと、思う。

それは、考えなくてもいいはずのことだった。
今が満たされていることを知っているからこそ、触れてはいけないもののようにも思える。

それでも、静かな夜は、記憶を呼び起こす。


セントポール学院の、あの日。

いつもと違う空気。
ほんのわずかな違和感。

もし、あのとき気づけていたなら。

イライザの仕掛けた罠に嵌ることもなく、あの出来事は起きなかったのかもしれない。自分が退学に追い込まれることも、テリィが身代わりになることも、なかったかもしれない。

あのとき、すべては始まっていたのかもしれない。

そう思うことがある。


アメリカへ向かう船。

出港の時間に間に合わず、船の見える丘で立ち尽くしたあのときのことを、今でも思い出す。

もし、あと少し早く着いていたら。

もし、間に合っていたなら。

「行かないで」と、言えただろうか。

言えたとして彼は、立ち止まってくれただろうか。

それは、もう確かめることのできない問いだった。


雪のポニーの家。

あのとき、彼は確かにそこに来ていた。

けれど、自分が着いたときには、すでに彼はいなかった。

ほんのわずかな時間の差。

それだけで、すれ違ってしまう。

もし、もう少しだけ早く着いていたら。

あの丘で、あの場所で、彼と向き合うことができていたなら、その先は、違っていたのだろうか。


シカゴ。

あの街で、あの時ふたりは同じ場所にいた。

彼は私の勤める病院に。自分は、彼のいるホテルへ向かっていた。

けれど、私たちは会えなかった。

もし、あのとき。

ほんの少しだけでも、言葉を交わすことができていたなら。

顔を見て、声を聞いて……何かが変わっていたのだろうか。


「もしも」は、尽きることがない。

ひとつではなく、いくつも、いくつも。

選ばれなかった道が、静かに並んでいる。


もし、すべてが違っていたなら。

ふたりは、もっと早く同じ場所に立っていたかもしれない。

同じ時間を過ごし、同じ日常を重ねていたかもしれない。

そして、スザナの事故も、あの別れも……

なかったかもしれない。


そう思うとき、胸の奥が、わずかに痛む。

それは後悔ではなく、存在しなかった時間への、静かな感情だった。


けれど、同時に思う。

もし、そのすべてがなかったら、今の自分は、ここにいるのだろうかと。

何度も立ち止まり、何度もすれ違い、何度も失いかけた。それでも、ここに辿り着いた。


窓の外の光が、ゆっくりと揺れる。

キャンディは、そっと目を閉じた。


「もしも」は、過去にしか存在しない。

けれど、今は、ここにある。触れることができる現実として。あのすべてを通り過ぎて、それでもなおここに辿り着いたという事実が、なによりもの確かなものだった。

だから、そのすべてを、否定することはしない。「もしも」があったからこそ、今の自分たちがいる。

そう思えたとき、胸の奥の痛みは、静かに形を変えていった。


窓辺からそっと振り向くと、ダイニングテーブルの灯りの下で、テリィが何かを書きつけているのが見えた。ペン先を走らせる音だけが、静かな部屋に小さく響いている。

その背中を見た瞬間、胸の奥に残っていた思いが、ふっと浮かび上がった。

気づけば足が動き、静かに近づき、そっと腕を回し背中から抱きしめた。

「おっと……」

不意を突かれたように、テリィがわずかに肩を揺らす。

その反応に、はっとしてキャンディはすぐに腕をほどいた。

「あ、ごめん!私、邪魔しちゃったね……」

慌てて距離を取るキャンディ。

だがテリィは振り向き、ふっと優しく微笑んだ。

「いいよ、別に。……もう一度やってみてよ」

少しだけからかうような声。

キャンディは一瞬戸惑い、それでも言われた通り、もう一度そっと腕を回した。

今度は、さっきよりもゆっくりと。

背中に触れる温もりが、静かに重なる。

テリィはペンを置き、ほんの少し肩の力を抜いた。

「……どうした?」

低く、やわらかな声。

かすかな笑みを含んだ声音。

キャンディはその背に額を預け、小さく息をついた。

そして、ゆっくりと口を開く。

「……今ここにいるって、確かめたくなったの」

言葉は静かだったが、確かにそこにあった。

「そうか」

テリィは、それだけ言うとその手に触れ、指先を重ねた。

言葉を交わさなくても、その意味は伝わっていた。

その温もりが、すべてを肯定するように、そこにあった。

夜は、変わらず静かだった。

けれど、その静けさはもう、孤独ではなかった。