私は盛り塩をする店が好きだ。
小さい頃から行っていたそば屋が盛り塩をしていたので
親しみもあるんだと思う。
そんな盛り塩マニアにとって
最近、盛り塩をしない店が多くなっていることに悲しみを感じる。
知らない人のために盛り塩が何かを説明すると
お店が商売繁盛を願って店の前に塩を盛った皿を置く風習、
またはその塩自体をさすのだが
盛り塩のよさは何かと聞かれると「手間とチープさ」にある。
唐突だが私は招き猫が大っ嫌いだ。
置いてあるのが大きければ大きいほど嫌いである。
理由は招き猫が「置いておけば商売繁盛」という
他力本願なイメージしかないことに尽きる。
「置けば客が来るかも、別に置かなくてもいいけど
客が来なかったときなんか嫌だから」
そんな店主の甘えと保険を打つ心の声が聞こえるようだ。
物が大きければ大きな声で伝わってくる。
そんな招き猫と比べて盛り塩はどうだろう
塩は風で簡単に飛んでしまうし、
湿気ですぐにみすぼらしい形になってしまう。
綺麗な盛り塩を保つために掃除をして新しい塩を入れ替える、
そんな面倒な作業を毎日行うのだ。
しかもそれをやっても客が来る保障なんて何もない、
「ただの願掛け」でしかない。
つまり商売繁盛を願って
「ただ置いておく」招き猫と「毎日手入れを行う」盛り塩、
この2つを商売繁盛の2大スターのように扱うのはおかしく思えるだろう。
誠意や熱意の差は比べるまでもないことは明らかだ。
いや招き猫には誠意や熱意すら疑わしい、
ただの欲望の塊と罵りたくなるほどである。
これが好きな理由の「手間」であるが
もう一つの「チープさ」とは盛り塩自体のことだ。
私の言いたいチープとは
値段ではなく見た目の安さという意味であることに注意して欲しい。
結論からいえば、そもそも盛る物なんて何でもいい。
先ほど言った通り大切なのは
自らの「願い」を管理してそれを維持することなのだ。
盛り塩は見た人にアピールする要素が皆無に等しい、
作ろうと思えば誰にでも作れるのだから。
ただ招き猫は可愛く座って小判を持っている、
明らかな客への「当てつけ」である。
そんなアピールは客に対してするものではないし、
それを客に訴えてどうなるというのか。
さて、ここまで来ると慈悲深い人なら招き猫のいいところを探したくなるだろうが、
実際、招き猫にあって盛り塩にない「良いところ」は存在する。
それは「願掛け以外の活用法」である
確かに招き猫はかわいいし、巨大なものになれば
客の目を引くだろう、しかし盛り塩にはそういった効果は薄い。
盛り塩の塩を翌日の商品に使うことは・・・どう考えても逆効果である。
そういう意味では盛り塩を置くことに意味はないといってもよい。
これは招き猫の持つ唯一最大の優位点である。
しかしそのように願掛けに合理性を求め続ければ
「願掛け自体が無駄なもの」で決着するのがオチである。
そうなれば元々「客を呼ぶ置き物」である招き猫の立場も当然危うくなる
ただでさえ金を持った猫の「アンティーク」はメッセージ性が強すぎるし
良くて「アンティーク兼願掛け」だろう、
もはや招き猫から願掛けの視点を除くことは不可能なのだ。
こんな招き猫を「アンティーク」と呼ぶことは
亀梨が「プロ野球選手」と呼ばれる様なものだと理解していただきたい。
亀梨が俺は野球で食ってるといったら非難轟々だろう。
彼は野球に精通したアイドルであるが、
決して野球界でまんまを食べているわけではない。
招き猫も同じなのだ。
所詮は置き物にもなる願掛けであることを忘れてはいけない。
長くなりましたがまとめると
盛り塩:商売繁盛を願い、毎日手入れを行う 願掛けのプロフェッショナル
招き猫:願掛けでは確実に盛り塩に劣る
よくてアンティーク扱いの取り柄なし優柔不断野郎
これが結論です。
どこかで盛り塩を見かけた時は
店の願いを背負った勇ましい姿を感じてください。
そのメッセージを受けて店に入れば
本当の良さを垣間見えることができるでしょう。
そして招き猫を見かけたら
その浅ましい姿に「この泥棒猫!」と吐き捨ててあげてください。
