《消えたゴミ箱》

 日本は「街中の清潔さで世界一」と言われて久しい。ゴミひとつ落ちていない。だが、それも風前の灯火になるかも知れない。

 街を歩く。至るところで真っ白な落下物を目にする。良く見ると使い捨てマスクではないか。それも一つや二つではない。恒例の花粉症に加え、コロナ騒動もあってか、その数たるや普通ではない。道という道がマスク街道の様相である。でも、これだけのポイ捨てには、どんな理由があるのだろうか。

(道端に捨てられたマスク)

(最近はこうした光景が如何に多いことか)

 昭和から平成にかけて暫く日本列島は、ゴミゴミゴミで溢れた。山林や原野には、耐久消費財から危険物までが次々と不法投棄され、道路沿いには車内から投げ捨てられたと思われる空き缶やペットボトルが山のように散乱していた。持ち帰りが厄介だったのだろう。至る所がゴミ捨て場の如くでもあった。

 こうした変化には何があったのか。バブル崩壊やリーマンショックを教訓とした節約志向の影響にせよ、それだけではない。環境の整備、ことにゴミ箱の存在を忘れてはならない。SC、コンビニのみならず、公園からサービスエリア、駅の構内等々、不燃、可燃、再利用と用途に応じて細分化されたゴミ箱が設置されていった。

(平成の半ば、急速に普及した分別ゴミ箱)
(ネットより引用)

 それも束の間、再び好景気になるや、今度はゴミ箱の撤去である。人手不足著しく清掃や集荷要員がいない中では当然の流れであろう。各地でゴミの持ち帰り運動が推進された。しかし、ここで大きな落とし穴が待ち受ける。車なら持ち帰りも可能にせよ、鉄道やバス、航空機を利用するなら、そうもいかない。旅の帰途、トランクの中身がゴミで満杯なんて、どうして想像できようか。

 たかがマスクも、されどマスク。社会の乱れは軽微な不正の放置から始まる、とする“窓割れ理論”を引き合いに出すまでもなく、こうした行為(マスクの路上投棄)が、いつポイ捨て文化を再来させないとも限らない。善悪の尺度は置かれた生活環境で変わるもの。その昔、列車内のゴミは座席の下に捨てるのがマナーであったように、一段と進むゴミ箱の撤去が、また芳香(悪臭)漂う美しい国ニッポンを復活させねば良いのだが。

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〈マスクの不思議(2)〉

 今回のコロナ騒動では当初、国を挙げてマスクの着用を推奨した。だが、それも虚しく潰える。個人のみならず医療機関から介護施設まで全て足りないのだ。診察は出来ない。手術さえ儘ならない。高齢者を抱える介護現場の嘆きたるや想像を絶するものだろう。

 こうした状況から国は方向を転換。国民に対しては、都度の交換でなく、より安全な使い方の指南に切り替えてゆく。しかし、これにも無理は多い。最たるは「着脱の際、マスク表面(裏面)に手は触れないこと」だろうか。ある意味これは正しい。でもウイルスはマスクだけではない。頭や顔にだって付着する。表面積の大きい衣類なら尚のことだ。日常生活の中でズボンやスカートにも触れられないなら満足に歩くことさえ出来ない。

 ならばマスクの着脱云々ではない。延命の基本は無意味な場所でまで使用しないことではないか。花粉症で悩んでいるなら未だしも、誰もいない朝の散歩や公園に路上と、終日着けていることに、どんな意味があるのだろうか。こうした無駄を省けば頻繁に取り替えることもない。結果として必要とする医療や介護の分野により多く届くと思うのだが。勿論、捨てられて道端を汚すこともなく。

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《今朝のネット記事/京都新聞から》

(京都大医学部付属病院(京都市左京区)では使用数が原則として1週間1枚になっている。京都市内の病院関係者からは「マスクを確保できる見込みは立っていない」と不安の声が漏れている)・・とのこと。

 置かれた現状は「マスクマン、医師が週一、民は日々」といったところか。