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 (濱田庄司氏 旧宅)

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 (上り釜)

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 (邸内)

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 (花器&茶器)

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 (代表的な濱田作品)

 益子焼は、江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことが始まりとされる。最も基本的な釉薬(ゆうやく)は漆黒(しっこく)や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆ)である。

 民芸運動以来、濱田が得意とした杓掛け、流し掛け、掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となった。かつて、版画家の棟方志功も濱田宅に滞在していたことから、棟方氏ゆかりの地でもある。

 因みに益子住まいは3歳位までなので当時の記憶は全くない。その後、笠間(茨城県)に移り10代後半まで過ごした。何れも北関東の原宿として名高い地域だけに言葉もファッションも時代の最先端をいっていた。だから「だべ」や「だっぺ」なんて下品な言葉遣いはしない。

「ん、いぐらエープリルフールだがらって、そんなちくらっぽ(嘘)こいじゃダメだっぺや」

 「・・・(-_-;)ヽヽ」

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 (昭和30年代の遠足風景)

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 (後ろは好文亭)

 当時(笠間小学校の)1クラスの児童数は60人に迫る。これが8クラスあった。今では一学年でもこれだけいるかどうか。そして遠足の定番は水戸偕楽園だった。上品?な生徒に、草ぼうぼうの偕楽園が懐かしい。

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《余計な心配》

 新元号は『令和』に決まった。だが、なにか勘違いしてはいないだろうか。施行は1ヶ月先の5月1日なのに、もう浮き足立っている。せっかちは往々にして損をするもの。元号詐欺には“くれぐれも注意を”といったところか。

 同じく、この4月を境に、ヤフーブログからも相当数が離れていったように思える。他社ブログへの移行ツールの提供開始は5月9日のはずだが・・。これまで書き溜めた記事は全て放棄してしまうのだろうか。それとも・・・。