伊沢八郎の「あゝ上野駅♪」を御存じかと思う。東北や北関東、上信越から集団就職する若者の哀愁を描いた演歌である。勤務地は東京だが都心では荷が重い。そこで手前に位置する埼玉南部が格好の居住地になった。浦和、大宮、川口といった都市部であれ、どこか垢抜けないのは(失礼!)こうした事情に由来しているのかも知れない。
先日、「住みたい街ランキング関東版」(SUUMO調べ)が発表された。これによると、1位横浜、2位恵比寿、3位吉祥寺の御三家に変化はないものの、なんと4位に大宮、そして8位に浦和がランクインしているではないか。そもそも、この両市(現さいたま市)は、長い間「住みたくない街」の常連であり、ダサい玉を象徴するエリアでもあった。でもどうして、これほどまでに急伸したのだろうか。先ずは写真を見比べて頂きたい。
◇◇◇◇◇◇◇
《大宮駅東口/現在》
東北と上信越を結ぶ玄関口であることから埼玉県を代表する繁華街を形成したが、街並みは昭和の半ばとあまり変わらず、西口の発展に伴い取り残された感は否めない。だが、再開発計画目白押しで、これから大きく変貌しそうだ。
《大宮駅西口/昭和40~50年頃》
文字通り“駅裏通り”で、日本全国どこにでもある田舎町のメインストリートだ。
《大宮駅西口/現在》
それが今、東京以北では有数の都市景観を醸し出している。
◇◇◇◇◇◇◇
《浦和駅西口/昭和39~40年代》
県都(県庁所在地)なら高層ビルが建ち並んでいるかと思いきや、浦和には、その面影すらなかった。だがら、しばらく“日本一みすぼらしい県都”として名を馳せていた。
《浦和駅西口/現在》
まだ田舎町の風情は残るものの、この十数年で、だいぶ“ダ埼玉”から抜け出しているようだ。浦和には東西南北の其々にJRの駅を有し、浦和レッズの本拠地(浦和美園)までは埼玉高速鉄道(埼玉スタジアム線=地下鉄)が走る。都心までのアクセスの良さも神奈川や千葉に比べて有利に働く。大宮、浦和のランクアップは、こうした理由だろうか。
因みに、愚生も昔、浦和(南浦和)に住んでいた。そして「四畳半、金なし風呂なし共同便所」の高級アパート」から都心まで通勤していた。あれから40数年、このエリアだけはあまり変わっていない。駅から数分だというのに、あのころの面影が廃屋通りに姿を変えて残っている。やはり〇埼玉、多彩玉になっても、こうした街並みだけは当時のままで懐かしい。
先日、「住みたい街ランキング関東版」(SUUMO調べ)が発表された。これによると、1位横浜、2位恵比寿、3位吉祥寺の御三家に変化はないものの、なんと4位に大宮、そして8位に浦和がランクインしているではないか。そもそも、この両市(現さいたま市)は、長い間「住みたくない街」の常連であり、ダサい玉を象徴するエリアでもあった。でもどうして、これほどまでに急伸したのだろうか。先ずは写真を見比べて頂きたい。
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《大宮駅東口/現在》
東北と上信越を結ぶ玄関口であることから埼玉県を代表する繁華街を形成したが、街並みは昭和の半ばとあまり変わらず、西口の発展に伴い取り残された感は否めない。だが、再開発計画目白押しで、これから大きく変貌しそうだ。
《大宮駅西口/昭和40~50年頃》
文字通り“駅裏通り”で、日本全国どこにでもある田舎町のメインストリートだ。
《大宮駅西口/現在》
それが今、東京以北では有数の都市景観を醸し出している。
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《浦和駅西口/昭和39~40年代》
県都(県庁所在地)なら高層ビルが建ち並んでいるかと思いきや、浦和には、その面影すらなかった。だがら、しばらく“日本一みすぼらしい県都”として名を馳せていた。
《浦和駅西口/現在》
まだ田舎町の風情は残るものの、この十数年で、だいぶ“ダ埼玉”から抜け出しているようだ。浦和には東西南北の其々にJRの駅を有し、浦和レッズの本拠地(浦和美園)までは埼玉高速鉄道(埼玉スタジアム線=地下鉄)が走る。都心までのアクセスの良さも神奈川や千葉に比べて有利に働く。大宮、浦和のランクアップは、こうした理由だろうか。
因みに、愚生も昔、浦和(南浦和)に住んでいた。そして「四畳半、金なし風呂なし共同便所」の高級アパート」から都心まで通勤していた。あれから40数年、このエリアだけはあまり変わっていない。駅から数分だというのに、あのころの面影が廃屋通りに姿を変えて残っている。やはり〇埼玉、多彩玉になっても、こうした街並みだけは当時のままで懐かしい。