(スタバで隣に座る盲導犬)

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 東京の夏期オリンピックが2年後に迫る。同時にパラリンピックが開催されるせいか、最近では、この話題も大きく取り上げられるようになった。そして誰もが拍手喝采を贈り活躍を期待する。だが忘れてはいけない。彼(女)らは障害と戦っているのだ。涙ぐましい努力をして晴れの舞台に立っている。明るく立ち振る舞う映像からは、健常者と同じように見えても、何不自由なく生活している訳ではない。この社会の立ち遅れた現実とも戦っているのだ。

 過日、駅ビルのエスカレーターに、ひとりの老人が乗った。どうやら左半身が不自由らしい。左手ではベルトに掴まれない。当然のこと右側に立った。すると透かさず、後ろから「ちょっと、どいてよ!」の苦情である。当地では左側に立つのが通例とはいえ、エスカレーターは駆け上がるものではない。見るに耐え兼ね割って入って事情を説明したが一向に反省の気配はない。謝罪もしない。それどころか、その老人が逆に謝っていた。なにか釈然としないひとこまである。

 近頃では障害者に配慮した音声や点字案内、路面に貼られた誘導帯が目立って増えた。随所にバリアフリーが施されるようになった。でも、まだ足りない。

 これも先日のことだ。あるショッピングセンターの前に、バス乗り場に迷う二人連れがいた。中年の男性と高校生だが、ひとりは白い杖をついている。たぶん親子で、息子が目の不自由な父親を案内しているのだろう、と思った。だが違った。聞けば、乗車位置が分からず乗れずにいる障害者を見るに見かねて、次のバスが来るまで付き合っているのだという。

 その時に初めて気付いたのだが、店内への誘導帯は至る所に施してあっても、バス停まではないのだ。反対側には途中までならあるものの乗車位置までは分からない。しかも音声や点字表記もないから、いつまでたっても乗れない。普段は気にも止めなかったが確かに不便だ。

 これは、この商業施設付近だけではない。良く見れば何処も同じだ。これからは路線バスの乗り場にも列車並みの音声案内や点字表記、乗車口までの誘導帯が必要ではないだろうか。ローカル線では設置費用が問題とはいえ、そうでもしないと目の不自由な方は、路線バスには乗れない。

 因みに、その高校生から別れ際に、「ありがとうございました」と礼を言われた。何もしていない。ただ、バスの到着時刻と乗車位置を教えただけなのだ。

 古来より、「最近の若い者は!」が決まり文句だそうだが、そんなことはない。見ず知らずの障害者に最後まで寄り添い、些細な口添えにも感謝する。こんな若者もいる。こちらから「ありがとう」と言いたい。