◇◇最近の小学生は「今の大人は漢字の読み書きも出来ないんだから」と嘆いているそうだ。何を、と思い教科書を覗き見すれば、やはり難しい。高学年用なら、なんとか読めるにせよ、まるで書けない。「怪訝」はともかく「機嫌を損ねる」さえ書けずに笑われてしまった。

1960年代、テレビの普及に伴い、情報は「読む」から見るに変わった。幾多の情報のみならず、小説のストーリーまで、テレビや映画で覚えた割合の方が多いのではなかろうか。

1970年代には電話もほぼ普及。遠距離での意思疎通は手紙から通話へと移行するに従い今度は「書く」習慣を順次駆逐してゆくことになる。この「書く」は、源氏物語を持ち出すまでもなく、古来より貴重な伝達手段であった。それが今、年賀状や暑中見舞といった儀礼を除けば、どれたけの者が活用しているやら。恐らく、50代から70代であれ、下手なラブレター以外には書いた記憶すらないのではないかと思う。

1990年代に入るや情報化社会に突入。伝達手段は電脳に取って代わる。インターネットとはいえ、文書は読み、そして書かねばならない。ニセ情報の蔓延も結局は読まされている。発信も書かねば通じない。だから今の子供達は、造語満載で難解な単文はともかく、きちんと書く長文(作文)は本当にうまい。愚生の子供の頃とは比較にならない。恥ずかしい限りだ。

試験の多くも択一式から筆記重視になった。字は上手くないとダメとかで部活人気は常に書道部が1、2位を争う。子供の頃、書道教室はあったが、書道部があった記憶すらない。学校でも「手紙は自筆で」を推奨しているとか。会話の衰退はあるにせよ何もかもが我々の世代を飛び越して逆行している。

1980年に始まったゆとり教育。そして昨今の脱ゆとり教育。昔から、中高年は保守、若年層は革新(リベラル)が定番であった。年長者は維持を、若者の多くは社会への不満から変革を求めた。これらも全てが逆転している。若者の方が圧倒的に保守なのだ。

イメージ 1

(データはNHK NEWS WEBより)

世は正に保守全盛の時代。変革を求めて立ち上がった姿はもうない。脱ゆとり教育が何らかの“意図”を持ったものでなければ良いのだが。

《余談》
▽▲▽▲▽▲▽

イメージ 2

(長髪なびかせるロックンローラーと高齢者によって占められた観客席=要拡大)

◇◇ロックの路上ライブも、入場者は高齢者ばかりで、若者の姿をほとんど見ない。杖や車椅子が多いことからも、よほど待ち遠しかったのだろう。50や60代では入りずらい雰囲気すらある。老人ホームの慰問でも、「おい、ロックをやれ!」で困ったという話を良く聞くが、あながち笑い話でもないようだ。