昨日、我が街で新型コロナウィルスの

70代男性の感染者が出たと書きましたが

奥方も感染者となり、2名も抱えることになりました

まだ、渡航歴も無く、感性経路が不明だけに

それが怖いですね

 

岐阜県は、この2日間で6名出て

感染者が8名となってしまいました

上の2名の以外では

スペイン旅行帰り20代男女2名と

フィリピン帰りの30代女性

ニューヨーク旅行帰りの50代男性

最近、問題となっている海外からの帰国者が

4名で、色んな事情があるかもしれませんが

いずれも大騒ぎになってる最中の旅行者でした

家族や関係者は不安が募ってることでしょう

お互いに細心の注意をして切り抜けましょう

 

今日は信長の父・信秀の古渡城です

今回は途中に説明を加えています

 

地下鉄名城線「東別院駅」で降り

道路を横断すると

東別院の参道があります

 

地下鉄駅名にあるように

近年は「東別院」と呼ぶことがほとんどですが

古くからの方は「御坊さん(ごぼう)」と

呼んで親しまれています

正式には

「真宗大谷派 名古屋別院」です

http://www.ohigashi.net/

 

この寺院に

織田信長の父・信秀の

「古渡城(ふるわたりじょう)」がありました

というのも

元禄3年(1690年)

尾張藩第2代藩主・徳川光友より

古渡城の跡地約1万坪の寄進を受けて

元禄15年(1702年)名古屋別院として

建立された寺院だからです

 

文政6年(1823年)新たな本堂を竣工しました

この年に東本願寺の御影堂と阿弥陀寺が焼失した時に

緊急の措置として当時の呼称の「名古屋御坊」の

古御堂が東本願寺の本堂とした歴史があります

 

明治期には愛知県庁や愛知県議会の機能が

同地に設置されたことも

明治7年(1874年)に開催された

「名古屋博覧会」の会場としても

使用されました

 

「山門」

最初の山門は宝暦7年(1757年)に建てられ

明治14年(1881年)再建されましたが

名古屋大空襲で焼失しました

現在の山門は昭和43年に建てられたものです

山門階上には

中央に釈迦如来像、右に弥勒菩薩像、左に阿難尊者像が

安置されているそうです

 

上の山門の左手にある

「鐘楼(しょうろう)」の写真の左手に

「古渡城址碑」と「説明看板」があります

 

元は山門を入ったすぐに左にあったようですが

今はこちらに設置されています

 

織田信長の父・信秀は勝幡城主から

前回の那古野城に移り

天文11年(1542年)の頃、

この古渡城を築城し、信長に那古野城を譲りました

この後、天文17年(1548年)に

3月22日記事の「末森城(末盛城)」に移り

廃城となりました

天文15年(1546年)

この古渡城で信長が13歳の時に

元服をしたと伝わります

また、お市の方の生誕の地との説もあります

ここも史跡の見えない幻の城です

ただ、この東別院に古渡城があったとしか

言いようが無いです

 

 

 

「鐘楼」と「納骨堂」

鐘楼の鐘には元禄5年(1692年)

鋳造との銘文があります

 

 

 

「本堂」

名古屋大空襲により灰塵に帰し

昭和37年に再建されたものです

 

 

鶯色の屋根が「対面所」

 

境内から見た山門

この日は何だったか分かりませんが

親鸞聖人のご命日(毎月28日)に

手作り朝市に約150店舗が出て

野菜やパン、お菓子、雑貨などの

出店があり、賑わいます

 

「名古屋教務所」

 

「東門」

 

 

東門から出た左手前に

「下茶屋公園」があります

この公園は古渡城の堀跡を利用した公園です

 

 

 

 

参道から見た「お茶処と太鼓櫓」

 

参道寺院側に「仏教伝来」をテーマにした

6基のモニュメントがあります

写真はそのうちの2つ

 

 

 

 

 

「中門」

 

ネットで調べても古渡城の姿が見えず

みなさん苦労されていますが

実はひも解くものとして

平成2年頃に地元愛知の南山大学が

古渡城を発掘調査をしていて

調査報告書が出版されているのです

どの程度の発掘だったのか内容が分かりませんが

調べて見ると廃刊のようで

古書店で3,200円から5,000円で販売されていました

今、購入しようかどうか迷っているところです(笑)