昼食後はバスで『フォンテーヌ』へ移動です。
 
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『フォンテーヌブロー城』です。
 
イル=ド=フランス地域圏で最も広い面積を持つコミューンで、近郊のコミューンの中で唯一パリより広いコミューンである。
近隣のアヴォンとその他の小さなコミューン3つとともに、人口約36,000人の都市圏を形成している。
この都市圏はパリの衛星都市で、パリのリヨン駅から列車で約40分で結ばれている。
 
フォンテーヌブローには、歴代フランス王の愛したフォンテーヌブロー城、またかつての王族の狩猟地で現在も自然が保全されている広大なフォンテーヌブローの森があり、パリジャンの週末の余暇地である他に、世界有数のビジネススクールINSEADのヨーロッパ・キャンパスの所在地でもある。
 
「パリの人」がParisien、「リヨンの人」がLyonnaisと呼ばれるのに比べて、「フォンテーヌブローの人」の呼称はBellifontainと少々複雑である。
 
歴史
 
フォンテーヌブローの発祥は、1763年のパリ条約が七年戦争を終わらせる以前である。1169年に公式にその名を歴史に初めて現した時、フォンテーヌ・ベル・オー(Fontaine Belle Eau)またはフォンテーヌ・ブロー(Fontaine Belleau)と記載されていた。
この小さな集落には、ルイ7世によって礼拝堂が作られた。
ルイ9世は非常にフォンテーヌブローを評価し、この土地を『砂漠』『無人の土地』と呼んだ。
そして彼は別邸と病院を建てた。
 
フィリップ4世はフォンテーヌブローで生まれ、フォンテーヌブローで没した。
 
ルイ6世からナポレオン3世に至るまでの、700年の間の34人の支配者たちが、フォンテーヌブローで過ごした。
 
16世紀から18世紀の間、フランソワ1世からルイ15世の代まで、重要な細工(解体、再建、拡張、美化)が行われた。
それらの加工は少々不均衡であると特徴づけられた。
しかしながら、城の建築様式は調和がとれている。
 
フォンテーヌブローの勅命は1685年10月にここで署名され、ナントの勅命が破棄された。
 
フランス革命の間、フォンテーヌブローはフォンテーヌ=ラ=モンターニュ(Fontaine-la-Montagne)と改名された。
この山(montagne)とは、フォンテーヌブローの森にある岩だらけの一連を指したものである。
 
1807年、スペイン宰相マヌエル・デ・ゴドイはフォンテーヌブローを来訪し、ナポレオンとの間にフォンテーヌブロー条約を結んだ(ポルトガルを占領した暁には、仏西で国土を分割するという密約)。
 
1812年、ローマ教皇ピウス7世が、幽閉されていたサヴォナからフォンテーヌブロー城へ、侍医のクララズを伴ってやってきた。
 
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紋章学では火のように燃え盛る勇猛や豪胆を意味する。
初期の紋章では炎に囲まれた犬のような描写をされていたが、時代が下るにつれ現実のサラマンダーやトカゲのように描かれるようになった。
 
フランス王フランソワ1世は「Nutrico et extinguo(我は育み、我は滅ぼす)」という銘と共にサラマンダーを己の紋章とした。
 
その紋章です。
 
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これは、
ルイ家の紋章。