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一戸には、一戸城と姉帯城があったそうです。姉帯城を紹介します。
今では静かな姉帯一帯は、先日紹介した珪化木の群生地でもあります。
国道4号からちょっと入ったところです。

現在は城の西側から登って行けますが、細い道で、暗い杉林・・・色々な意味で怖いです。
形だけの駐車場もありますが・・・不安になる道です。

現在は、公園になっていて桜が植えてあり、春の花見には最高でしょうね・・・

以下、説明板を転記しました。

姉帯城は中世南部氏の一族である姉帯氏の居館であったといわれています。姉帯氏は姉帯に五百石の他、飯岡に壱千石(現盛岡市)の領域を持ち、九戸南部氏とのつながりが深かったため、戦国時代末期の南部家領主をめぐる争いでは、九戸方の有力豪族として戦っています。天正19年(1591)、豊臣軍は九戸城攻略の前哨戦として姉帯城を攻撃しました。これに対して領主姉帯大学兼興・五郎兼信兄弟や大学の妻で長刀の名手小滝の前、棒術の名手である小屋野など、一族郎党が近隣の諸豪族ととに城にたてこもり応戦したものの、大半が討ち死にし落城してしまいました。
城は、馬渕川北側の50m以上もの断崖の上に築られた典型的な山城で東西2つの郭(くるわ)から構成されています。西の郭は東西130m、南北60m、東端には幅10mを越す堀が二重にめぐり、東の郭と西の郭の間にも幅20m以上の大きな堀があり、この堀にそって西の郭に高さ2.7mの土塁が残っています。
平成8年度から3年間、一戸町教育委員会で学術調査をしたところ、特に西の郭で重複した建物跡や墓跡などが多数見つかりました、墓からは人骨や副葬された銅鏡・古銭、周辺からは鎧・槍先・刀・矢じりなどの武具が大量に出土しており、合戦の生々しさを伝えています。
建物跡やその周辺からは、中国産や国産の陶磁器などの生活用具とともに、当時流行した茶の道具なども出土しており、豊かな戦国武将の生活の一端が明らかになっています。

こうやって説明文を読んでみると、益々南部藩のことが知りたくなります。