長きに渡る戦乱の世に、徳川家康が終止符を打った。
戦国時代に終わりを告げた日本にとって、戦いに明け暮れた者たちを
必要とする場所は、もうすでに過去のものとなりつつあったのだ。

そうした時代にあって、ある者はあらたな活躍の場を求め、また
ある者はそんな日本に馴染めず、数多くの武士や荒くれ者達が、
海を渡り、新天地、東南アジア各国へと渡っていった。
有名なところではシャムで活躍した山田長政がいるが、
それ以外に数多くの日本人が、いわば「日僑」ともいえる存在として
各地に日本人村をつくり、現地に足跡を残していったのだった。
現地で家族を持ち溶け込む者、持ち前の腕っぷしを買われ、軍人と
して活躍したものなどがいた。
また世界に目を転じてみると、いわゆる「大航海時代」の真っ只中に
あたり、スペイン・ポルトガルをはじめヨーロッパ各国がアジア諸国に
出没していた時代だった。

戦国時代を通じて、日本国内で人さらいが横行していた事実は、
あまり知られていない。いわゆる「内戦状態」であった日本では、
戦に負けることはその地のありとあらゆるものが収奪されていく事を
意味していた。人々はそれをただ見届けるしかなかったのだ。
そして、収奪されるものの中には「人」も多数含まれており、
数多くの人々が、人さらいによって、生まれ育った地から連れ去られ、
各地へと連れて行かれたのだった。

そして、大航海時代を迎えて日本にも出没していた欧米諸国の中には、
そういった「奴隷」同然の身の上となった「日本人」を買い取り、
海外へと「輸出」することを商売とする者達も現れてきていた。
特に九州地方で横行しており、戦国時代後半から江戸時代初期にかけ、
それらを取り締まる文書や命令が、各大名から発せられていたのは
厳然たる歴史的事実なのだ。

自ら異国の地へ赴いた者、自分の意に反して海を渡った者、それぞれが
今は遠くなった自らの故郷に思いを馳せ、身を寄せ合って暮らしている
事実が戦国から江戸にかけての、日本の転換期に実際に存在したことを
読者の方は、頭の片隅にでも覚えておいて欲しい。
そしてロドリゴが送り返した日本人たちと言うのは、そういった彼ら達
だったのだ。ある意味、もう一度故国の地を踏むことが出来たと言う
その一点でのみ考えれば、彼らは幸せなもの達だったと言えるかもしれない。

忘れもしない1608年3月15日、アカプルコの港を出港した私は、
6月13日ルソン島のカピテに入港、15日にマニラへと到着した。

1606年6月にフィリピン諸島長官ドン・ペドロ・デ・アクニャが
急逝したため、ドン・フワン・デ・シルバが後任の長官として
赴任するはずだった。しかし1608年になっても彼はメキシコに
到着せず、時のメキシコ総督ドン・ルイス・デ・ベラスコは
急遽、私に白羽の矢を立てたのだった。当時、私は、鉱山の町
タスコの長官として、1600年3月から埃っぽい任務に就いていた。

マニラに着いた私には、早速大仕事が待ち受けていた。
前年(1607年)、マニラで暴動を起して捕われの身となって
獄中にいた日本人達をどう処遇すべきか、いきなり外交問題が
突きつけられたのだった。

高等法院においては、彼らを放免し、日本に送還すべきとの判決が
下っていたのだが、なにぶん長官不在のため、実行できずにいたのだ。

早速、私はその判決を追認し、あわせて日本国王に対して書簡を送る
ことにした。渡航準備中だった船に彼らを乗せ、日本を支配している
徳川家康とその息子秀忠に書簡を書きしたため、浦賀へと送り返した
のだった

書簡には、私のフィリピン着任の件、およびマニラでの暴動とその
首謀者たちへの処罰・送還について、また日本からマニラへ渡航する
船の数を1年間に4艘と制限して欲しい旨をしたためた。私としては
、 傍若無人に振舞っていたと聞く日本人が急速に増加し、暴動や治安悪化
を招くことを極力避けたかったからだ。

しばらく後、家康・秀忠より書簡と贈り物が届けられた。暴徒の処遇、
異存無き旨が記されていたのだった。

こうして、私は赴任早々、全く不慣れな外交問題の対処を余儀なくされ、
また日本で言うところの「縁」、日本との縁が、この時に出来ていたの
かもしれない。

・・・ここで、フィリピンのロドリゴから離れ、この当時の日本の状況と
国際情勢について軽く触れてみたい。

スペイン皇帝陛下より命ぜられた、長きに渡るフィリピン諸島の統治の任務を
勤め上げた私は、ようやく帰国の途に着くことができた。
イスパニア王ドン・フェリペ国王が、私の後任として、ドン・フワンデ・シルバを
新たにフィリピン諸島の長官に任命したからだった。

フワンデは1609年(慶長4年)4月にマニラに到着すると同時に、
諸島長官 兼 軍隊総指揮官 兼 高等法院長の任に就いた。
その夜、私の部屋で(明日からは彼の部屋なのだが)、引継ぎを兼ねて
フィリピンでの思い出話を、彼に語っていた。二人でワイングラスを傾け、
飲み干しながら、なぜだか私の胸に去来するのは一抹の寂しさであった。
長きの任務が終わり、その緊張感から解放されてホッとする一方、
フィリピンでの厳しくも楽しい日々が懐かしく思え、むしろ愛おしくさえ
感じている自分に気づいた。

(まいったな、明日にはここを発たなきゃいかんのに。)

この後、太平洋という大海原を乗り越え、長い船路を過ごし、帰国するのだ。
しばしワインに酔いしれ、フィリピンを懐かしむのも、そりゃ悪くなかろう。
各長官の任を解かれた私には、国王への在職中の各種報告という
ヤヤコシイ仕事が待ち受けているのだ。それに比べれば、フィリピンでの日々は
なんて自由だったのか、とあらためて思う。

明日にはイスパニア艦隊司令官フワン・エスケルラの奴が率いる、約1000トンのイスパニア船
「サン・フランシスコ号」に乗り込み、マニラを出発して、ノバイスパニアへと向かうのだ。
しばし、ここで私のフィリピンでの思い出話を語らうのも悪くなかろう。。。

ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ がフィリピン諸島の長官兼司令官の任務を終え、
帰国の途に着いて遭遇した不運は、彼にとって一つの数奇な運命の始まりでもあった。

また、当時の日本の人々がどのような生活をしていたのか、国内の為政者や知識人達の
目から見たものではなく、意図せず漂着してしまった異国人の目を通して描く事は、
我々に江戸という時代に生きた人々への、新たな知見を促すものとなるであろう。

ロドリゴとその一行が辿った数奇な運命の数々に、きっと我々は驚くに違いない。
これからしばしの間、彼らの冒険にお付き合いいただき、共に旅を楽しんで頂く事にしよう。