天窓破れ転落!小6男児死亡…算数の体験授業中3階屋上から1階に
6月19日8時1分配信 スポーツ報知
18日午前9時25分ごろ、東京都杉並区の区立杉並第十小学校で、3階屋上にある半球状の天窓を破って小学6年の男児(12)が1階まで転落、全身を強く打ち、搬送先の病院で約3時間後に死亡する痛ましい事故が起きた。当時は算数の体験授業中だった。夜に開かれた緊急保護者会では、学校側の安全管理を問題視する声が多数上がった。
亡くなったのは同区の会社員・中村俊晴さん(44)の長男の京誠(きよまさ)くん=写真=。警視庁杉並署などによると、当時は算数の授業中で「10メートル歩いて何歩になるか」という距離を計測する体験学習中だった。中村くんのクラスは教室から屋上に移動し、歩数を測っていたという。 終業チャイムが鳴る10分前の9時25分ごろ、引率していた女性教諭(49)の指示で、児童が教室に移動していたとき、中村くんが、半球状の天窓を突き破って12メートル下のコモンスペースと呼ばれる広場に転落。中村くんは、当初は意識はあったが、病院に運ばれ、午後1時17分に死亡が確認された。 天窓はアクリル性プラスチックで、厚さ4ミリ。内側に厚さ7ミリの板ガラスが敷かれていた。学校側は、小学生が乗っても耐えられる強度という認識だったようだが、1986年に校舎が新築されてから22年間、取り換えられることはなく、日照により劣化していたと見られる。点検は06年10月にしているが、これまで点検は目視だったという。 屋上は普段は施錠されており、教職員の立ち合いがなければ、児童は屋上に上がることはできないという。屋上には天窓が5か所あり、段差はあるものの、囲いはなく、屋上に上がれば、だれでも近づくことは可能。児童が大勢で騒いでいれば、つまずいて天窓に倒れたり、しりもちをついたりする危険性もある。引率の教諭は中村くんが天窓から落ちた状況を見ていなかったという。 同校の宮山延敬校長はこの日午後4時から区役所内で記者会見。「どこよりも安全でなければならない学校で事故が起きてしまい、深くおわびします」と沈痛な表情で謝罪した。「指導していた教諭は、子どもが(上に)乗って落ちるという危険性は予見できなかったと思う」とかばった。一方、同席した井出隆安教育長は「安全管理を徹底しないまま授業をしていたのは、決して好ましいことではない」と話し、学校側の姿勢に疑問を示した。 |
この事件、学校側の安全面がどうだったのかとか言われてるでしょ?
なんでその子が天窓に乗ったのかとか詳しい状況はわかんないんだけど、確かに天窓は子供が乗っても耐えられる強度であって欲しかったと思う。
ただ、ワタシがそれよりも懸念するのは、だんだん学校、いや社会全体が過保護になりすぎてないかな?
なんでもかんでも”安全”って。
確かに天窓の強度が不足していたのは問題だが、それよりもはるかにここで重要な事は「天窓に座ったら落ちますよ、死にますよ」という事実を生徒達が知っていたかどうかだ。
誰だって正常な精神を持つ物であれば、進んで死地に飛び込む者はいない。
「あの天窓に座ったら落ちて死にますよ。窓の強度がアナタの体重に耐えられなくなって壊れて落ちます。」って事さえ注意していれば、他はなんも物理的な安全対策は本来必要ないはずである。
補:まぁ今となっては、事故を起こした生徒が身をもって教えてくれただけに、誰ももう天窓には近づこうとはしないだろうが。
そうは言っても、なにか間違って落ちてしまうこともあるだろうし、低学年の生徒は理解がなかなか難しいかもしれないから、強度対策はやっておくべきだと思う。
「柵を設けておくべきだ」という意見には、ワタシはあんまり賛同できない。
何故かというと、柵を設けるとそこが危険な場所と認識しなくなってしまうからだ。
ワタシは学校の設備すべてが(見かけ上)安全であってはならないと思う。
そもそも”完全な安全”っていう環境が現実離れした考えだと思うし、さっきも述べたが、生徒に「ここに入ったら死ぬ」、「これに触れたら危ない・ケガをする」ってことを教えられる場所が学校内にないとダメ。
現実に学校外に出たら危ない場所なんて無数にある。落ちたら死ぬ場所なんて幾らでもある。
学校内に危ない場所が1つでもないと、小さいうちから子供は「ボク達の社会はどこでも安全なんだ」みたいな、アホ極まりないとっても危ない勘違いをしかねない。
そんな柵を設けるみたいな物理的な方法で子供を守るのではなく、”危険がこの世にはどこにでもある”っていう当たり前の知識を教える方が先じゃないのかな。
なんでもかんでも安全にすると、本来人間に備わっている”危険を察知する能力”が落ちかねない。いや、もう落ちていると言った方が正しいだろう。
ワタシ達は、色々と便利になった近代社会のおかげ道具・機械にひどく依存するようになり、ワタシ達の先祖から受け継いできた能力を使わなくなってきてしまっている。
ワタシ達の国は先進国と呼ばれているが、先進国というのは技術、社会の仕組みが先進なだけであって、人間的に先進かというとそうではない。むしろ後退していると思う。
昔のワタシ達の祖先がどんなんだったかは、近代社会に組み込まれていないアフリカや南米ジャングル奥地のなんとか族みたいな人達を見るとよくわかるだろう。
何百メートル先の物が見える目を持っていたり、自分が作った道具で狩りをして栄養分をとったり、長い距離を走っても全然疲れなかったり・・・先進国の人間にはとても真似ができないような体力・能力があり、とにかく人間としてたくましいのだ。
ワタシは何か根拠があるわけではないが、あの『北斗の拳』のような時代が、今の社会情勢を憂うといつ来てもおかしくないなぁとマジで思う。
『北斗の拳』の時代は、核戦争が起こり暴力が満ちあふれ、力が正義のような時代・・・大地は植物が育たないほど枯れ果て、人々は水・食料を求めてさまよう毎日・・・
実際の私達の世界は核戦争こそまだ起こってないものの、地球規模で進む環境破壊、人口増加による食糧問題、強力になる一方の戦争兵器・・・なんかちょっとしたキッカケで、『北斗の拳』の世界に突入しかねない脆い世界にいることを私達はもっと認識すべきだと思う。
もし、そんな暴力が支配する時代になった日には、力のある者(=身体能力が優れている者)、他人の生命を吸ってでも生きたいと思う生存欲が強い者が生き残る。
世界の各民族の中でもとりわけ道徳・礼節を重んじ、安全が保証された環境にいる日本人では、そんな世界では絶滅の危機にまずさらされるだろう。
”安全”、”便利”な社会を無限に求めていいのは、この今の社会が未来永劫続くことを前提にした場合の話だ。
ただ、悲しいかな永遠に続くものは何もない。何事も必ず終わりはある。
『北斗の拳』の時代に今からでも備えておこう。