出演告知。
告知ギリギリになりました💦
来週の今日になりますが、10日水曜日に元シルクドゥソレイユの日本常設シアター「ZED THEATER」である現「舞浜アンフィシアター」にて開催される「GIFT」にエアリアルパフォーマンスで出演させていただきます。
日本舞踊からエアリアルパフォーマンスまで、ジャンルを超えたフィジカルパフォーマンスの祭典です‼︎
夏休み、今年から祝日になった「山の日」前日。
まだご予定空いてましたら是非観に来て下さい‼︎
チケットはairyjapan711@gmail.comまでご連絡いただければご用意できます😊
よろしくお願いいたします‼️
エンジェルナンバー。
晴れたけど、やっぱり星空は見えなかった七夕の夜。
スマホを何気なく見たら…
7月7日の22:22。
こういう、生活の中でふと目にするゾロ目を「エンジェルナンバー」と言うんです。
でも普段はあまり気にしたことがないのに、Wでゾロ目からなのか思わずスクショ。
何だか気になって2222のエンジェルナンバーを調べてみたら…
『あなたの願いや望みは、まだ見えていなくても形になりつつあります。
今の状況は、関わっているすべての人にとって、おのずと見事に解決していくので心配はいりません。
信じる心と勇気を持ってください。すべてはうまくいきます。』
さらに77のエンジェルナンバーは…
『あなたの進んでいる道はスピリチュアル的にも正しい道です。
あなたの意志に忠実に、そして揺るがずに前へ進んでいきましょう。
今あなたが行っていることは、天界から見てもとても素晴らしいものと言えるでしょう。
そしてあなたの行っていることすべてが財に結びつく結果となるでしょう。』
先週から色々と波乱続きでかなり落ちてたから泣きそうになった。
うん。
明日からも頑張る‼︎
『胎内記憶』後記(番外編)
今回、公演をする事が決まって本格的に準備を進める中、心揺らぐ出来事がありました。
私の体操人生で、最もお世話になった最愛の恩師が天に召されました。
余命3ヶ月と宣告されてからご家族の献身的な看病の甲斐あり5年という闘病生活。
発病当時すぐに会いにいきましたが、その後は免疫力0に等しい状態のため会いたくても会えないもどかしい長く辛い時間が続きました。
4月に入った頃、抗ガン剤投与が出来なくなりモルヒネ投与が始まり、会話が出来るうちに会いに来て欲しいと5月中旬過ぎた頃連絡をいただき、すぐに会いにいきました。
食事制限が無いということで、日体生ならではの大好物「かっぱ」の煮込みを持って。。。
妹の持ってきた新潟の美味しいお米と、かっぱの煮込みを黙々と食べ、「美味しい」と言ってくれました。
食べるという一番の生命力を信じ、奇跡を願い、また来ますと約束をしました。
6月入ってすぐ、急に「行かなきゃ」と思い、6月4日土曜の夜から茨城に帰り、5日のお昼に妹とお見舞いに行く予定でした。
父と母と、先生との思い出話しを夜中中話して寝不足になった5日の早朝、呼吸が止まったと連絡があり駆けつけましたが間に合わなかった。。。
高校に入学して、部員が私しかいない2年間、休みなく練習してくれて、合宿に連れて行ってくれて、試合に連れて行ってくれて、いつも先生の車の助手席は私の指定席でした。
「あの子、神尾先生の愛人なんだよ」と学校で噂が立つくらいいつも一緒だった。
「おまえが頑張っているんだから一つも苦じゃないんだよ」と体調が悪い時でさえ絶対練習を休まなかった。
退職してすぐの発病で、企画されていた退職祝いは、快気祝いと合わせて盛大にやるはずでした。
何一つ自分の名誉や名声なんか関係なく、体操を愛し、生徒を愛してくれる先生でした。
日体大体操競技部には、研究班といって学生コーチが選手を指導するシステムがあります。
そのシステムを立ち上げたのが、神尾先生で、選手のサポートをする縁の下の力持ち。先生のサポートで先生の親友の藤本俊先生はオリンピックで金メダルを取っています。
無名選手だった私が日体大に行けたのも先生のお陰。
今の私がいるのは神尾先生のお陰です。
病院に駆けつけたときにはすでにご自宅に帰っており、会いに行くと、寝息の聞こえそうな穏やかな顔で、トレードマークのいつも着ていたジャージ姿で眠っていました。
カラダの大きな先生の補助の安心感からなかなか抜けられない大学時代でした。
病気と闘い抜いたカラダは小さくなってしまっていたけど、やっと痛みから解放されたんだな。。。と涙が止まりませんでした。
一度東京に戻り、公演の準備をするも涙ばかり流れる日々。
そして、お通夜、告別式。
先生の看病を一手に引き受け、喪主も勤められた娘さんはじめ、ご家族のみなさまの大きな愛に溢れる、先生の最期にふさわしいお式でした。
お通夜は、式場の駐車場も式場にも入りきれないほどの人が駆けつけて、告別式もやはり人が入りきれなくて、先生の偉大さを改めて痛感し、私は先生と出逢えて本当に幸せ者だと…故に失った悲しみは大きく現実を受け止められずにいました。
先生が発病されたのは弟が脊髄損傷の怪我を負った直後。
どっちが先に元気になるか勝負だなんて言いながら励ましてくれていました。
弟が、お式中に両肩がズーンと重くなり「あっ、神尾先生だ」と思ったそうで、弟にエールをくれたんだなと思いました。
私は先生をパフォーマンスにお誘い出来る機会が中々なく、1度もちゃんとした形で観てもらえなかったことも心残りの一つでした。
告別式の早朝、キヨノさんから「最後にもう一度会えなかったのは、悲しいし、悔しいかもしれないけど、それは先生の選択だったんじゃないのかな?胎内記憶は生と死の間だから、魂がまだ近くにいる四十九日の間にこれをやるのは何か意味があることなんだと思う」とメッセージをもらっていました。
そうなんだと納得し、23日のソロパフォーマンス『胎内記憶』の招待状をお棺の中に入れさせていただき、「特等席をご用意してお待ちしていますね」と最後に声をかけてさよならしてきました。
招待状を渡せた事で、少し気持ちが切り替わり、俄然創作に没頭しました。
衣裳を作って下さったMiiさんとの最終フィッティングの時、キヨノさんとも事前打ち合わせをしました。
色々話がひと段落してお茶にしようかとなったとき、キヨノさんが「先生とお話したよ」と。
私………⁇⁇⁇
いや、キヨノさんがそういう能力を持っているのはわかっていたけど、あまりの事に声も出ない。
「亡くなったのを知ってね、今ならお話出来ると思って、初めましてってご挨拶したの」と。
「会いたいと思って呼んだけど、やっぱり最後のかっこ悪い姿は見せたくなかったんだって。今まで、パフォーマンスも意地張って観に行けなかった(昔、いつまで突っ走るんだと言われた事がありました。)から、今回やっと観に行けるのが本当に楽しみなんだよっておっしゃってたよ」と。
私、涙しか出ませんでした。
告別式の朝、キヨノさんがくれたメッセージは直接先生の声だったんだ。
キヨノさんはそういう超感覚の持ち主で、お腹に宿る前の魂や、亡くなった方々、お腹の中の赤ちゃんと会話が出来る人。
だからこそ今回のテーマをやるパートナーとして唯一無二の存在だったのです。
そんな事があり、より思い入れの強い公演となりました。
当日のゲネプロ(通し稽古)が初合わせで、「もう先生観に来てるのかな?」とか緊張しながらリハーサルして、その直後に私にお花が届きました。
‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎⁈
受け取りのサインしながら涙が止まりませんでした。
そして本番。
オープニングからのキヨノさんのクリスタルボウルとのセッションは先生への追悼の舞でした。
そしてエンディングの時、客席後方の上空に確かな先生の気配を感じました。
「あぁ、来てくれたんだ」と思いました。
先生、ありがとうございました。
身体は楽になりましたか?
今はまだ色んな人に会いに飛び回ってお忙しいのでしょうか?
また、ご招待状送りますから観に来て下さいね。
『胎内記憶』後記(後編)
頭の中で組み上がっていて、本番前に初合わせのゲネプロ。
やっぱりLIVEでの心情、感情はイメージ通りではなくて、キヨノさんの奏でる心地よい音と、観て下さるお客様の心情や呼吸、その場で生まれる空気に身を委ねて踊りました。
このシーンでは、難産で産まれてきた息子とやっと出逢えた瞬間とリンクして泣きそうになりました。
あっという間の50分。
赤ちゃんの気持ち、母親の気持ち。
色んな気持ちが巡り巡って不思議で、幸せな時間でした。
終演後は子供たちのパラダイス状態(笑)
楽しそうにずっと登っていました!
家族も。
名古屋から友達も。
大先輩も。
大阪からドリル魂時代からのファンの方、他にも沢山の方が観に来てくれたし、キヨノさんのお友達からも沢山声をかけてもらいました。
本当に夢のような時間。
共有してくださった皆様、観に来れなくてもエールを送ってくださった皆様。
本当にありがとうございました。
やはり、この方たちがいなかったら出来なかった。
special thanks
Himi kiyono san
Mii san
kaeru san
Aki
YUKA
MARICO
shiori
INSPA SENZOKUIKE sama
また、どこかで再演出来たらと思っています。
本当にありがとうございました!
『胎内記憶』後記(前編)。
す初のエアリアルソロ作品公演『胎内記憶』から1週間の間に3つのイベントがあり、6月30日にひと段落した事でようやくゆっくり振り返る時間が出来ます。
キヨノさんが大好きな息子に何も言わずに見せて
本番の映像、写真はありません。
そもそも胎内記憶とは?
お母さんのお腹の中にいたときの記憶の事で、陣痛から誕生までの「誕生記憶」、お腹に来る以前の「中間生記憶」などにも分けられるらしいのですが、一般的には「産まれる前の記憶」を総括し「胎内記憶」と呼んでいるようです。
覚えている子、いない子、あとは聞くタイミングも大切なようで、うちの息子は覚えていて話してくれました。
2歳半位の頃だったでしょうか。
夜寝かしつけながら「おかぁかのお腹の中どんなだった?」と聞いてみたのです。
すると、
「きもちぃぃ〜かったよ。ふわっふわで」
「あったかくて、まっくっくだったの」
「いつもなにしてたの?」と聞くと、
「きっく、きっくしてたの」
「おーそれみーよーってきこえたの」
(当時声楽にハマっていた旦那さんがお腹に向かってオー・ソレ・ミオ歌ってた…(笑))
「どんな風にお腹の中にいたの?」と聞くと
「こんなふうにしてたの」と毛布に包まって胎児のポーズしました。
「どうしておかぁかを選んで来てくれたの?」
と聞くと、
「かわいぃ〜かったから」と。
そんな自身の体験と、思い起こせばシルクドゥソレイユのオーディションで発表した作品が正しく胎内記憶を表現したもので、大変興味を持ってもらい、いつかリバイバルしたいと思っていたところ、今回、「音楽・絵・言葉」で共演して下さったヒミキヨノさんから出た「胎内記憶なんてどお?」という一言でこれしかない‼︎と話は進んでいきました。
キックオフミーティングをしたのが4月の中頃。
お互い抱えているお仕事も忙しかったので、個々の役割をハッキリとし、マメに連絡を取り合いながらの準備。
まず最初にキヨノさんが、今回のテーマをイメージしてメインビジュアルを描いてくれました。
キヨノさんが大好きな息子に何も言わずに見せて
「なにか感じる?」と聞いたら、
「1番外側にお父さんがいて、真ん中にお母さんがいて、2人に包まれている種みたい。優しくて愛に包まれている感じ」
と考えずスラスラスラ〜っと答え、「コレ、コトリさん(キヨノさんの愛称)が描いたんでしょ?」と言うので凄いなぁ(キヨノさんも、子供の純粋さも)と感心しました。
音楽も全てキヨノさんにお任せしていたので、私はひたすらイメージだけを膨らましてルーティーンを練習。
ただ、あまり作り込んだものにしたくはなく、作品冒頭で行うキヨノさんが奏でるクリスタルボウルのセッション含め、お客様含めのその場で感じる音、空気、に身を任せインプロビゼーションでいこうと考えていました。
音が上がってきたのは6月初旬。
全7曲に私が「お腹の中で聞こえる鼓動、血流の音、外から聴こえる会話、音楽をメロディではない胎内音として作って下さい」とリクエストしたら、想像を超える鳥肌ものが出来上がってきて、
曲順に通して音を繰り返し聴いていたら、あっという間に頭の中で構成が組み立っていきました。
そして衣裳。
キヨノさんのお母様が、着物の生地でお洋服を作るアーティストさんで、是非お願いしたいと言ったところ、とっても素敵なものが出来上がってきました。
1度2人だけでお会いして、みっちりミーティング、イメージ、色、形、機能的な事まで細かく聞いて下さいました。
そのミーティングで出来上がったイメージで、伸ばしていた髪を後先考えずこの公演の為だけに30cmカット(笑)
2人ともMiiさんの衣裳。
胎内記憶オープニング
コチラは『胎内記憶』の冒頭。
コチラは『胎内記憶』の冒頭。
息子の胎内記憶を話した当初の声です。
コチラはキヨノさんのクリスタルボウルとのセッション。
コチラは私がリクエストした胎内音のシーン。
これらはリハーサルの時のものです。
今回、映像や写真をお願いする余裕がなく、本番は皆様の心のカメラに残していただきました。
後編へつづく…
胎内記憶。
HiROKO×Himi Kiyono
special live performance『胎内記憶』
無事終演いたしました。
色んな感情が湧きすぎて、何から書こう…という感じですが、まずは感謝を伝えたい。
今回、私の想いを受け止め、一緒にこの作品を創ってくれたヒミキヨノさんに。
キヨノさんのお母様であり、打ち合わせも念入りに、そして素敵なお衣裳を作ってくださったartist Miiさんに。
私の想いを叶える為に会場となったINSPA洗足池様に交渉して下さり、当日も朝から終演後のバラシまでサポートしてくれたkaeruさんに。
忙しい時間をぬって会場設営、仕込みをバッチリやってくれたエアリアル仲間のYUKAちゃん、maricoに。
同じく設営から、当日打ち合わせでバッチリ照明をやってくれた体操&エアリアル仲間のAkiちゃんに。
受け付け、終演後のバラシを手伝ってくれた親友のしおりちゃんに。
休館日にもかかわらず、会場を提供して下さったINSPA洗足池様に。
そして会場に足を運んで私達の想いを共有して下さったお客様に。
とても幸せな時間でした。
とても心地よい時間でした。
準備期間の約2ヶ月。
キヨノさんと直接打ち合わせしたのは2回だけで後はメールでのやり取り、合わせは本番当日の本番直前のリハーサルだけだったけど、お互いの想いがピッタリ合わさるとこんなにスムーズに行くんだと不思議な感覚でした。
それは、2人でのパフォーマンスだけど、これだけ沢山の人の想いが重なり成し得た奇跡だと思っています。
感謝しかないです。
まずはこの場を借りて、本当にありがとうございました。
感謝。
先日告知させていただきました、私のソロエアリアル公演『胎内記憶』
私の持分となっております予定席数分が完売となりました。
元々小さい会場ではありますが、こんなに早く完売なるとは思っておらず、感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございます。
当日席は出せなそうです。
申し訳ありません。
キャンセル待ちをお申し込み順にお受けしますので、ご希望の方はairyjapan711@gmail.comまでご連絡ください。
おそらく、共演させていただくartist ヒミキヨノさんも完売しているか、完売間近か…だと思いますが、LOTOLヒミキヨノHPまでお問い合わせ下さい。
どうぞよろしくお願いいたします。
出演告知☆
長年沸々と温めて(煮立ってしまうくらい(笑))いた想いが実現する事になりました。
私が尊敬して止まない、そして心の拠り所であるcreative artistのヒミキヨノさんに畏れ多くも「一緒にやりたい」と前から少しずつ意思表示をしていたのだけど、今回それがついに叶うこととなりました。
胎内記憶。私自身はないけれど、母の立場として経験し、その神聖なる神秘的な魅力を表現したいなと。
思い起こせば11年前にシルクドゥソレイユのオーディションで発表した作品も胎内記憶。
あの頃はまだ出産も経験してなくて私の想像の世界を作り込んだものだったのだけど、今回は超感覚というとても不思議で素敵な能力を持っているKiyonoさんとのセッションで起こる化学反応に身を任せて、囚われない表現をしてみようと思っています。
もしかしたら空中に行かない…なんてことも起こらないとは言えない?かも(笑)それはウソですが、それくらいの感覚で踊ってみたいと思います。
沢山の人に観ていただきたい(現状お席にはかぎりがあるのですが)です。
HiROKO×Himi Kiyono 「胎内記憶」
2016年6月23日(木)
open 19:30 start 20:00
place: ≪INSPA 洗足池≫
東京都大田区東雪谷1-27-5
charge: ¥3,000 (小学生以下¥1,000、3歳以下は無料)
お席に限りがあります。お申し込み順にお受付けしますので、私にお申し込みの場合はairyjapan711@gmail.comまで。
2011年3月11日。
昨日で東日本大震災から5年。
まだ5年。
もう5年。
感じ方は人それぞれだけど、私には5年も経ったようには思えず、あの時の記憶が鮮明に残っています。
あの頃は弟の事故で立川に通っている頃でした。
たまたま予定が変わりその日は立川には行かず、スタジオの備品の買い出しで薬局に行っている時でした。
店中の棚から商品が落ちてきて、街灯が今にも落ちそうなくらいガシャンガシャンと大きな音を立てて揺れていました。
予定通り出かけていたらちょうどモノレールに乗っていた時間だと思うと恐ろしいです。
地震後のテレビでみたリアルタイムの映像は、とても現実世界とは思えない残酷なもの。
あの時はあまりの事に脳が現実とは受け入れず、冷静に見ていたと思います。
息子を保育園に迎えに行くと、防災頭巾をかぶり、「きょうはひなんくんれんだったの~」とおやつを食べていました。
まだ3歳の息子のトラウマにならなそうかな?と安心しましたが、その後も繰り返される津波の映像は見せないようにしたり、続く余震や昼夜問わず鳴り響く警報音に恐怖心を抱かないように配慮しなくてはなりませんでした。
開店2時間前から行列のスーパーの何もない棚。
何時間も並んで10Lしか入れられないガソリン。
そんなのは被災した地域の方々の足元には到底及ばない苦悩でしたが、本当にパニックになっていました。
ご飯が食べられるのが当たり前。
綺麗なトイレに行けるのが当たり前。
欲しいものはお店に並んでいるのが当たり前。
仕事があるのが当たり前。
暖かい布団で寝れるのが当たり前。
家族と一緒にいれるのが当たり前。
生きている事が当たり前。。。
弟は大震災の4ヶ月前に身体が動かなくなり、さらに当たり前を奪われていました。
当たり前って何だろう…
私達は日頃、これらの事に感謝して生きているでしょうか?
私の中でも消えたり現れたりしますが、改めて当たり前の有り難さを思い返した時、私の中から色々なイライラが消えました。
オーディション落ちたとか、プレゼンかけてた仕事が決まらなかったとか。
息子が宿題忘れたとか、テストが悪かったとか、ワガママ言ったとか、どうでもいいなと。
夫婦喧嘩して「もー無理」とか思っていたことも、今こうして存在していること、イライラ出来る事にさえ感謝なんだなと。
失って気付く?
失わなきゃ気付けない?
震災だけの事ではなく、遠くも近くも未来に自分の命がある保証なんてない。
そう思うと、朝どんな状況でも息子を送り出す時必ず抱きしめて、笑顔でいようと思えるようになった。
何かあった時最後の記憶が笑顔であるように。
そんな事を考えながら生活するようになりました。
被災された方々の傷が癒えるなんて容易い事ではないと思います。
でもどうか亡くなられた方の分まで生きてほしい。
生かされている意味を自分なりに考え全うしていく事が使命だと心に刻んで…
すべての人に希望の光が降り注ぎますように。
亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。
報われた日。
ブログ更新しないまま月日が流れ、早くも3カ月目突入してる2016年。
こうして写真で見るとすんなり立てるようになったように見えますが、こうなるまでにはかなりの時間と血の滲むような努力を重ねました。
今日は6年前には想像出来なかったとってもとっても嬉しい事がありました。
2010年11月17日。
何度かブログには書いていますが改めて。
私の弟が大学1年の冬、体操の練習中に首から落下し脊髄損傷による全身麻痺になりました。
若干19歳。
救命救急で緊急搬送。
頭蓋骨に穴を開けて固定し、全身管に繋がれていました。
周りで人が亡くなっていく救命救急室。
そんな場所で何日も過ごしました。
命には別状はないとはいえ、青春真っ只中の弟と私たち家族の、脊髄損傷との闘いが始まりました。
一寸先も闇。
光も希望も閉ざされた長い長い時間。
でも、弟は沢山の困難を一つ一つ乗り越えてきました。
大学は休学。
長い入院生活。
感覚の失われた身体を戻していくリハビリの日々。
社会復帰の為の施設生活。
1人暮らしを始めて大学に復学。
突如体操部のコーチ不在で学生コーチとして後輩たちの指導。
ここ最近は、体操の大会のテレビ放送の編集のお手伝いを任されるようになったり。
こうして写真で見るとすんなり立てるようになったように見えますが、こうなるまでにはかなりの時間と血の滲むような努力を重ねました。
胸から下は触ってもわからない、とにかく少しでも感覚が戻るようにと手先足先のマッサージをするところからのスタートで、何カ月も天井とにらめっこ寝返りすら出来ませんでした。
握力は0kg。指先が微かに動いて、何十枚も靴下を重ね履きした上から触られているかのような感覚が戻ってきて、漫画がめくれるようになって、iPadに触れるようになって、ちょっとずつちょっとずつ。
今では料理もするし、車の運転もするし、体育館の中で3時間立ちっぱなしで指導することも。
杖を使って歩けます。車椅子を完全排除まではまだまだかかりそうですが、目指して頑張っています。
先日初めて我が家に来て、自分で車椅子からダイニングの椅子に移動して一緒にご飯を食べました。
そして、ついに6年かかって大学卒業が確定しました‼︎
しかも大学院の試験に合格し、4月からは大学院生です‼︎
正直、浪人するかもと言っていたのですが、合格したと連絡がありリハーサル中に涙を堪えるのが大変でした。
6年前、どんなに泣いても枯れる事のない涙を流す毎日。
数え切れない程のご縁と、サポート、感謝しかない支えてくれる沢山の人。
今日は6年分の有難い沢山の想いが報われた日。
今は本当に幸せで明るい気持ちです。
和真本当におめでとう‼︎
いつもどんな時も応援しています。
和真を支えて下さる皆さま。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします



































