片岡篤史さんにエール | フッキーの日日是好日

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私の感じた毎日を時には熱く、時には個人の主観(あくまで個人的意見)で書きたいことを書こうと思い、ブログをすることにしました。

今、病院のベッドでコロナと闘っている片岡篤史さん。

朝のニュースでは、衝撃的な映像が流れてました。

 

片岡篤史さんに関する記事を見つけました。

長いですが・・・。

Number983号(2019725日発売)の特集から一部を紹介

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1980年代中盤に高校野球で圧倒的な強さを誇ったPL学園。

その原点となったのは自主練習が中心の合理的な練習と理不尽の塊ともいえる研志寮での抑圧だった。

表裏一体の世界に挑んだ彼らが見た現実とは。
 

そこにはもう夢の跡すらなかった。

平成最後の2月、片岡篤史は久しぶりに大阪・富田林にある母校PL学園を訪れた。

グラウンドに人影はなく雑草が伸びていた。

そして、バックスクリーンの向こうにそびえていた「研志寮」がちょうど重機によってコンクリート塊となり、

さらに粉々に砕かれているところだった。

「僕たちが生死をかけた場所がね……。なんか涙が出てきた……」

全寮制の中で、1年生が先輩の身のまわりを世話する独特の「付き人制度」が苛烈な上下関係を生んだ。

大袈裟ではなく、本当に1日を生き残るのに必死だったという。

「1年生は笑ってはいけない。調味料を使ってはいけない。風呂では桶もシャンプーも使ってはいけない。何が理不尽なのかもわからず受け入れるだけだったし、疑問を抱いているような余裕もなかった」

 

泣きながら「俺たち世間に帰れる!」

朝6時、先輩と同じ4人部屋で目覚まし時計が鳴らぬうちにそっと起きる。

炊事をし、食堂では壁を背に直立不動で先輩のお代わり、お茶注ぎのタイミングに神経を尖らせる。

最後に自分の飯を5分でかきこんで学校に走り、終業と同時に今度は寮に走る。

練習を終えた夕刻、ヘトヘトの体で炊事、洗濯、夜食の用意やマッサージをし、禁止されていた菓子をこっそりと口に入れ、

時計の針がとうに0時をまわってから泥のように眠る。

体の上を這うゴキブリを払いのける体力さえ残っていなかった。

「実際に逃げた奴もいるけど、ほとんどは『絶対逃げたんねん』『明日、辞めたんねん』と言いながら、次の日にはまたグラウンドへ行く。

年に一度の正月休みに向けた帰省カレンダーというのをみんながつけていて1日1日を塗り潰していった。帰る前の日には屋上で泣きながら抱き合った。『俺たち世間に帰れる!』って言うて。僕ら学園の外のことを『世間』と呼んでいたから」

待望の帰省。

片岡は京都・久御山へ帰る前、梅田駅で立浪和義ら1年生の仲間と喫茶店に寄った。

糖分に飢えていたからコーヒーには飲み終わったあとも分厚く堆積するほどの砂糖を入れた。

実家の食卓では白米にこれでもかというほどマヨネーズをかけた。

両手いっぱい菓子やデザートを抱えたが、なぜか、あの寮内でこっそり食べる時ほどの甘さも幸せも感じなかった。

「今、考えたらおかしいのかもしれない。でも当時はあの理不尽を乗り越えるからこそPLは日本一なんだと、だから夢が叶うんだとしか考えていなかった」

 

片岡の礎は土埃にまみれた1日1200球。

片岡が入学した1985年のPL学園はまさに絶頂期だった。

3年生には甲子園のスターである桑田真澄、清原和博がいた。

彼らは最後の夏、5期連続甲子園出場のドラマを完結させるかのように全国の頂点に立った。

1年生の片岡たちはPLのユニホームが放つ輝きを誰より間近に見た。

だからどんな地獄も、すべて栄光へのハードルだと思うことができたのかもしれない。

そして、グラウンドに出れば、日本一と呼ぶべき質の高い野球と自由競争があった。

「先輩たちは本当にうまかったし、1年生も一緒に練習できた。それに僕らは寮で緊張して目配りの訓練をしているせいか、打者がバットのグリップを何ミリ持ち替えた、野手が何センチ守備位置を動いたという変化がだんだん見えるようになってきた」

監督の中村順司はピィンと張りつめた全体練習をきっちり3時間半で終えると、あとは自主練習としていた。

あの時間がPLの強さ。1年生は自主練の打撃投手をやるんだけど、僕は大会前にいろいろな先輩から投げてくれと言われて朝9時から夜の10時まで室内練習場で投げ続けたこともあった。陽の光を浴びていないのに顔は土埃で真っ黒。1箱150球を8箱投げていた。苦手なコースに投げたらしばかれるから、先輩の得意なコースに、見やすくて回転のいい球を投げる。そのうちにスローイングのコツがわかってきた」

つまり、光はいつも理不尽の向こう側にあった。

長く控えだった片岡は3年春に、あるポテンヒットから打撃の真に触れ、夏は4番として甲子園春夏連覇を果たした。

大学を経てプロ入りし、内野手として獲得した3度のゴールデングラブ賞は土埃にまみれた1日1200球が礎だった。

プロ生活の転機となった1994年オフ、野手として例のない右肘靭帯再建術に踏み切ったのも、打におけるわずか数cmの誤差を体が察知できたからだった。

「後から考えると理不尽と思っていたことから覚えたものって確かにあるんです」

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今の時代には、考えられない壮絶な高校生活・・・。

でも、それがあったからこそ、プロの世界であれだけの成績が残せたんだと思います。

コロナ感染理不尽です。

でも、片岡さんは高校時代に理不尽に勝った男です!

片岡さんの言葉

 コロナからの生還、心よりお待ちしております。