令和2年8月20日(木)
早いもので、急性前骨髄球性白血病と診断されてから1年を迎えました。
7年前に父を亡くし、その半年後に兄を亡くし、母も少しずつ記憶の忘却が進行し、もう人生でこれ以上の悪い出来事はないだろうし、40歳を過ぎたので、健康には気を付けようと思っていた夏の終わりに、衝撃の診断をつきつけられました。
異変に気付いたのが2019年8月18日早朝1:00頃。
今までに感じた事のない後頭部からの鈍い頭痛。痛みはさほどないものの、鈍器で軽く叩かれたような、40年間で感じたことのない頭痛が。しかも寝てごまかそうとしても、なかなか眠れない。ようやく眠りについたが、朝5時くらいに目が覚め、その痛みを和らげる為に、ロキソニンを服用しました。
頭痛ごときで仕事は休めないので出社するものの、9時過ぎに薬がきれたのか再び頭痛が。ただ、朝5時にロキソニンを服用したので、6時間の間隔をあける為11時すぎにロキソニンを飲む。
この段階で、医者に行くことを考え、仕事を切り上げて、休日だったので当番医に行くことを決意。
ここで病院に行こうとした判断なのですが、昔の僕だったら間違いなく病院にはいかなかったでしょうね。頭痛ごときで会社を休めません、仲間に迷惑がかかりますから。ただ、僕の兄も、酷い頭痛がしていたにも関わらず、病院に行かなかった結果、約2か月後くらいに脳内出血により、突然亡くなっていました。そのような経験から、頭の中で、
「お前が家を継ぐんだから、何かある前に病院に行けよ。」
というような声が心の中で聞こえたような気がしたからです。今僕があるのも、兄のおかげです。
そして汗をかいていたので、自宅のシャワーを浴びるためお風呂場に行き、下着を脱ぐと・・・。
下腹部と左足の付け根の間に、15センチくらいの内出血跡があり、鮮やかな紫色をしていました。
(後日談なのですが、妻は、8月12日頃から、僕の両腕に、数か所の痣を見つけていました。ただ、そんなに大きくなかったので、自分では大丈夫であろうと思っていました。今思えば、ぶつけた覚えもないし、この病気の初期症状の特徴の一つだったのですが。)
14時頃に当番医の内科のクリニックに到着し、頭痛と内出血跡を確認してもらうことに。
どちらの原因もわからないが、とりあえず血液検査をして、外部の検査所にだすので、2日後に再受診してほしいとのことだったので、その日は家に帰宅します。
2日後の8月20日朝9時半頃。クリニックからの電話があり、本日受診するようにとの連絡がありました。クリニックも忙しいだろうと思い、何時頃が空いているか尋ねると、17時くらいとの返答があったので、その時間を予約します。
すると10分後再びクリニックから連絡が入り、すぐ来てほしいとのことだったので、10時頃にクリニックを受診しました。
普段は穏やかな先生が、神妙な面持ちで、
「先日の血液検査の結果、おそらく、いや白血病です。病院を紹介しますので、今すぐその病院に向かってください。そして、そのまま入院になると思います。」
と告げられ、直ちに病院に行くように促されました。
すぐに妻に連絡し、保育園にいる子供たちのお迎えをお願いする。会社には今わかるだけの情報を伝え、自宅に戻りました。入院といっても1~2週間だろうと考え、髭剃りや数日分の下着、日記帳を準備。いやあ、白血病との診断をうけ、愕然としました。やはり白血病=不治の病とのイメージがありましたので・・・。子供たちのことを考えると、成人して社会にだすまではまだ死ねない、何とか治さないければいけない、だけど治療費は高額だろうから、その金額いかんでは、治療拒否したほうがいいのでは? などなどいろいろとあらぬことを考えていました。
自宅から血液内科のある専門病院までは、山道を運転して、約1時間40分くらいでした。(のちに復興道路と言われる相馬~梁川間の道路の存在を知り、1時間10分に短縮される。タクシー料金は約2万1千円。)
そこでまず骨髄穿刺(こつずいせんし・通称マルク)の洗礼を受け、しばらくして『急性前骨髄球性白血病』と診断されます。
ヒグラシの鳴き声が虚しく響きわたる大部屋に入り、夏の終わりを感じるとともに、何とも言えない寂寥感に襲われていったことを思い出します。
当日からベサノイドという薬を飲み始めていきました。
そして、抗がん剤を血管に流し込むカテーテルを首に装着して、無菌室(クリーンルーム)に移動しました。
無菌室では、最初の一週間はダウノマイシン・キロサイドを併用した治療で、否応なしに抗がん剤の洗礼をガッツリ受けましたね。今思えば、初期治療である寛解導入療法のこの時期が、精神的・肉体的に一番きつかったですね。抗がん剤の副作用からくる吐き気や味覚障害・嫌悪感や食欲不振などありましたし、この病気における入院期間やその費用、また治癒率やら生存率、そして今後の治療法などわからないことだらけでしたから。この、寛解導入療法の時期は、人生で二度と体験したくないほど精神的・肉体的にキツかったです。
また、僕の場合最初の10日間ずっと寝たきりだったので、腰の筋肉を殆ど使っていなかったため、起き上がったり、咳をするだけで、腰に激痛が走っていました。とにかく、筋肉を少しでも使っていくしかないので、廊下をウオーキングしてました。
腰の痛みも収まり、ようやく病気のことを調べようとなったのが、緊急入院から2~3週間目くらいでした。この病気は、近年治療薬等の進歩から、劇的に治癒率があがったとのことでした。
治るのなら、どんなに苦しくても妻や子供たちのためにも病気を克服しないといけないと強く考えられるようになれたのもこの時期です。
サブタイトルの ~無菌室より愛をこめて~ との表現も、とある日無菌室で目覚めた朝、太陽がまぶしかったんですよ。その時、ちびっ子たちの笑顔がふと脳裏をよぎり、なんとも言えない愛情というか、慈しむ感情が沸き起こり、パパは病気をのりこえるから、もう少しお家で待っててねという気持ちからこのサブタイトルをつけました。それからですね、病気を絶対に治してやるという強い想いから、リハビリに専念していきました。
現在は維持療法中で、アムノレイク2クール目です。多少のだるさや軽い頭痛はありますが、順調です。
それから、コロナで子供たちをどこにも連れていけなかったので、近くの海に行ったときの画像をアップしておきます。
コロナが無ければ、今まで仕事を理由として子供たちの相手を疎かにしていたので、ネズミの国に連れていきたかったのですが・・・。 僕が入院中で寂しい思いをさせていたにも関わらず、気丈に振舞っていた娘たちには、頭が下がりました。そして何かトラブルがあっても、家族で困難を乗り越えていくものなんですよね。感謝の気持ちを抱きつつ、子供たちを海に連れて行きました。
海辺で考えていたのですが、白血病にしろ、コロナにしろ、普通の生活がしたい、ただこの想いだけなんですよね、治療中の願いって。
現在治療中のみなさんが、一日も早い回復をし、家族のもとに帰れますように。