光る君へ




長徳の変


伊周と隆家がやっちまった❗️



伊周の勘違い

俺の女に手を出してる奴は誰だ!!



懲らしめ脅してやるつもりで、放った矢

相手は花山院

兼家に騙されて天皇から僧になってしまった

あの方だった。



矢は院の衣を突き抜けたと史実にある。

そして、お互いの従者通しが乱闘になり

花山院の従者が2人殺され、

首を持って行かれた。



通っていた女とは、斉信の妹

伊周ー三の君、花山院ー四の君



斉信の通報で道長へ

道長が実資に調査を命じる



1) 元天皇であるお方に矢を放つとは!

  暗殺とみられても仕方がない



2) この時、詮子の体調が悪く

  伊周が呪詛したと疑われた。

  呪詛の道具も発見されていた。

  これは、道長がはめた説もあり⁇



3) 太元帥法で道長を呪詛した疑い!

太元帥法は天皇家のみが許された真言宗の秘法

 天皇家の権威を侵犯する重大な罪である




これらの罪により、

伊周は太宰府へ

隆家は出雲へ流罪を命ぜられた。




しかし、素直に従わない2人

定子の二条亭の館に匿われていた。


一条天皇の命によって、

検非違使による

破壊的な徹底捜索された。




隆家は素直に逮捕されたが、

伊周はいち早く逃げる。

母の高階貴子のところに逃げたのだった。




結局、逮捕されたが、

後に一条天皇のお情けで

伊周は播磨へ

隆家は丹波へ

と、減刑されている。




ところが、播磨に収まってあればいいのに

母の高階貴子の具合が悪くなり、

心配のあまり

母の元へ抜け出してしまった。




当時の平安貴族というのは、

京から出たことはなく、

京の外は野蛮な危険な獣みたいなものばかりで、

流罪は死刑も同然という感覚であった。




中宮定子はショックのあまり、

髪を切って出家してしまう。

出家すると内裏には入れない。

天皇にもお会いすることはできない。



しかし、出家の後もたびたび内裏に

入り天皇と密会していた。




この一連の事件が長徳の変である。



その後の隆家は、

九州を襲う外国人勢力から

日本を守る大活躍をするのだ。

貴族とは思えないほどの

武闘派としての仕事を成し遂げる。




科挙


587年に随に始まり、

1300年清末まで続いた官僚登用試験である。


合格すると、裕福な生活と出世が3代続く

と言われた。



試験内容は社会情勢や口頭論述、

儒教経典の解釈と論語孟子などの

儒教575390字を暗記・作詩・論文




合格率は3000倍

合格平均年齢37歳

最高年齢76歳で合格した人もいた。




日本人で唯一合格した

阿倍仲麻呂は

19歳で唐に渡り、8年で合格した。



トップ合格者は状元という称号が

授けられていて、

今でも名残があるとのこと



男性は誰でも受験できたが、

教育費や受験費用は多額になり

結局、経済的に有利な官僚の師弟が合格

不正発覚では死刑

カンニングも横行していた




源氏物語


第12帖  須磨



朧月夜との仲が発覚し、

追いつめられた光源氏は後見する

東宮に累が及ばないよう、

自ら須磨への退去を決意する。



左大臣家を始めとする

親しい人々や藤壺に暇乞いをし、

東宮や女君たちには別れの文を送り、

一人残してゆく紫の上には

領地や財産をすべて託した。



 須磨へ発つ直前、

桐壺帝の御陵に参拝したところ、

生前の父帝の幻がはっきり目の前に現れ、

源氏は悲しみを新たにする。




須磨の侘び住まいで、

源氏は都の人々と便りを交わしたり

絵を描いたりしつつ、淋しい日々を送る。


つれづれの物語に明石の君の噂を聞き、

また都から頭中将がはるばる訪ねてきて、

一時の再会を喜び合った。



やがて三月上巳の日、

海辺で祓えを執り行った矢先に

恐ろしい嵐が須磨一帯を襲い、

源氏一行は皆恐怖におののいた。





つづく


























源氏物語第12帖 須