タイ。


私の父親・伯父が働く会社がある。


もう3度も旅行している。


国内で何も変わらない毎日を過ごしている私。


何か変えたいと思った私。



タイ。 ちょうどよい。 いこう。



・・・しかし待てよ。お金ないじゃん!


しかも持病や自律神経の不調もあり体調面ではかなり不安・・・


行って仕事みたいなことをするのは先生から禁じられているし・・・


タイ行って何すんだろ私・・・




そんな時、タイの伯父から「オマエいつこっちに来るんだー」と言われた。


諸々の事情を話すと「何も考えずにきたらいいんだよ、そんなもん」と言われた。




そうなのだ。

私はタイに行った場合、「何か」を見つけてこなければならないと思っていた。

「何か」は「生き甲斐」だったり「今後の人生のヒント」だったり「仕事」だったり「向いているもの」だったり。

海外で受けたインスピレーションを、体現しなければいけない気がしていた。


何にもない私がタイに行くには誰かの面倒になる。

何にもない私には価値がない。

だから、せめてタイに行ったことはムダではなかったと言えるような「何か」を持ち帰れば、

言い訳がたつような気がしていた。


だからなのか、伯父の言ってくれた


「何も考えずに来たらいいんだよ、そんなもん」


という言葉にえらく驚いてしまった。



いいのかな・・・?


ただの気分転換で終わるかもしれない私のタイ行きなのに、いいのかな・・・?




そう思って母・父・先生、とにかく周りのお世話になるであろう人達に聞いてみた。



母は「それで少しでも気持ちがはれるなら、いってらっしゃい」と快諾してくれた。

私が言い出すのを待っていたかのようだった。

金銭面のやりくりもあるだろうに、こんなだらしない娘のために用意してくれた。


タイでは、父の世話になることになった。

父はいろいろな準備をしてくれた。


ちなみに、父はあまり家族間のコミュニケーションが得意ではないため、

伯父さんの口ぞえで準備開始に至ったようだ。


伯母さんも私を心配して何度も電話をくれた。

大丈夫よーと励ましてくれた。

伯母さんも去年1人で伯父さんのもとへ小旅行をしていたので、そんな話もしてくれた。

どうやら滞在先では日本のテレビが見れたり洗濯もしてくれるみたいだ。

(伯母さんも私もコンドミニアムのようなところに滞在。

もっとも、伯母さんの滞在したところはリゾートで、私は庶民的なところらしい。充分だ。)


先生はみな「行ったことのあるところだし、心にも良いことだと思うよ!」と言ってくれた。

(働くのはやはり禁止だが・・・)




こうして私のタイ行きが決定した。



いろんな人に世話をしてもらうと、有り難い気持ち以上に

「みんなが私を気に掛けてくれているんだ・・・」という気持ちになり、

心があったかくなるような感じだ。



約2週間、体調面の不安もあるが、基本的には1人での滞在。


夜と週末は、父と伯父の会社のみなさんと会えるそうだ。

(3度も行っているし、小さな頃から知っているのでみなさん何かと気にしてくださる)




少し緊張しているため吐気と闘いながら、

荷造りをしている。


・・・大丈夫だろうか・・・・・







「自律神経の乱れ」

頭痛、吐気、眩暈、下痢、便秘、だるさ等・・・


ここ最近の悩みのタネだ。

眩暈のせいで足を引きずるように歩かなきゃならなかったり

頭痛のせいだか吐気のせいだかわからんが眉間にシワ寄せっぱなしで

始終機嫌の悪いばあさんみたいだ。



私の場合は心がくたびれているから乱れるそうなのだが・・・。




特にストレスを感じる日々は送っていない。

相変わらずのんびりとしている。

着物を着て出掛けたり、、ビーズでアクセサリーを作ってみたり、

ピアノやギターを弾いたりしている。

超気まま生活だ。


なのにドクターいわく、

「自律神経が乱れる原因はほとんどストレスだからねぇ~」


そこで考えてみた。


そして思い当たった。


私はこの‘きまま生活’に相当の焦りを感じていたのだ。

‘療養’のためとはいえ、この生活はいつまで続くのか。

この時間を使って将来役立つ資格やスキルを身につけようにも

一体何が向いているかなんてわからない。

興味本位で資格をとるなんて、ちょっとお金勿体ないし・・・

じゃあ相応の覚悟をもって何かを学び始めるとしても

その‘覚悟’を貫いたことの無い私は私を信用できないでいる。


つまりは、何か自分をバックアップする力、あるいは精神が不足しているのだ。



心が弱いので、臆病になる。

そのため、可能性に挑戦しない。

でも、このままじゃいけないんじゃないのって思う。

そうして、段々とうじうじしている自分が嫌いになってくる。

結果、心は更に弱くなる。


弱い心のままでは、何かやるにしたって相当の覚悟がいる。

それこそ、「これでダメだったら死ぬしかない!」みたいな大それた覚悟。

弱い心ではそこまで自分を追い詰めてやらなければ、

大きすぎる一歩はなかなか踏み出せない。


元気だった頃は自分の可能性を信じることができたし、

こんな覚悟しなくても何だって挑戦できた。

自分がこんな風に臆病者みたいに縮こまっているのは、想像すらできなかった。




こういう悪い方に悪い方に考えすぎたせいで、

自律神経のバランスが狂ってしまった。

ストレスを自分でつくってしまっていたのだ。

困ったもんだ。


さて、どうやってこの気持ちを乗り越えていこうか。


一山超えればまた一山。


気まま過ぎても、頑張りすぎてもだめ。


自分と向き合うって、自分との根競べかも知れない。






結構前のブログに

横浜は黄金町にある喫茶店について書いた。


実はその日は、違う目的もあり横浜に来ていた。


遊廓跡地を見るためだ。



横浜で有名だった『港崎遊廓』。


コトの始まりは開国に関係している。

当時の日本では、繁華街に遊廓あり、といった感じで

それぞれの街に遊廓があった。


開国に伴い、港近くの街は整備され

日本人居住区や外国人居住区ができた。


港崎遊廓には、外国人を客として扱う店もあった。

看板が英語のところもあった。

(客として廓内に入れる外国人はかなり位の高い人たちだったそう)


中でも有名な店が「岩亀楼(がんきろう」。

その造りは竜宮城にも例えられ、多くの人々が魅了された。


なかでも岩亀楼は、

特に身分の高い外国人のために遊女の出張サービスを行っていたため

外国人からの評判も高かったそうだ。


というのも、

遊廓といえど政治思想が無いワケではない。

開国に伴って造られた遊郭とあれば、

外国人が客になるのは必須。

中には攘夷思想を持ちつつも、

幕府からの召集や商売のために集まった店もあったと思われる。


特に遊女たちにとって

今までに見たことも話したこともない外国人の存在というのは

脅威であっただろう。


そのため遊廓内には「外国人お断り」の店も存在していたし、

外国人の相手を頑なに拒み自害した遊女の話もあった。

外国人の妾として身請けされた遊女もいたが、

彼女たちは「らしゃめん」と呼ばれ軽蔑されることが多かったそうだ。



そんな港崎遊廓跡地・・・正確には、

「岩亀楼」の石製の燈籠

を見に、関内の地におりたったのだった。


実は港崎遊廓は1866年に火事で消失している。

大体の建物は木製だったから、全滅だったろう。


※燈籠も、もしかしたら復元かもしれないけど。


横浜スタジアム横の日本庭園にその燈籠は佇んでいた。

そう、ひっそりと・・・


周りの人たちは目もくれないその燈籠が、

私には大興奮の代物だった。


ここに、あの港崎遊廓が・・・!

この燈籠に灯りが灯って、張り見世が始まって・・・

ここから、異人館まで駕籠で・・・

道中もあったかも・・・

頭の中は学生時代に大学の図書館で発見した

岩亀楼の詳細が書かれた画や

店で外国人をどんな風に接待したかなどが書かれた図で

いっぱいである。

港崎遊廓へ脳内タイムスリップである。


たった一つ残った燈籠に様々なロマンが重なる。

感動の瞬間。



この跡地めぐりに付き合ってくれた友人は、

京都・島原遊廓跡地にも一緒に行った。


良い友人がいると、良い旅・良い発見ができる。




こうして私はたびたび「江戸チャージ」をして気分転換している。


今度はどこに行こうかな。