僕らの世代はこの国の音楽の土台を作って来た。
ぼちぼちこの世を去る年になっている。
死んであの世とやらに行ってしまった人も数多くいる。
ショーケン、井上堯之,かまやつひろし、鈴木ヒロミツ、加瀬邦彦などGSで活躍した人もいるし
僕はその頃ミュージック・マガジンを毎月購読していたので知っているけど
内田裕也は日本のロックに東奔西走し貢献した人だった思う。
鳩山由紀夫、邦夫のいとこでGRECOの教則本でお馴染みのメリージェーンの作者成毛滋。
高田渡もいたし浅川マキもいたし、石田長夫もいた。
忌野清志郎もいたし加藤和彦もいた。
最近ではYMOの教授や幸宏迄も逝っちまった。
音楽で貢献した学校といえば青山学院、
マイク真木に始まりサザンオールスターズ、尾崎豊、
女性陣では森山良子、矢野顕子かな。
それにあまり知られてないけど凄いのが立教新座高校かな。
御大細野晴臣を筆頭にCMソングを始めてヒットさせた
「ケンとメリー~愛と風のように」のBuzzの東郷昌和。
同級生の高橋幸宏、後輩に佐野元春がいる。
さてここいらで吉祥寺の話に戻そう。
駅前の汚い路地の飲み屋街をハーモニカ横丁と呼んでいた。
僕が行ったどの店にもトイレなどはなく
客は駅前の共同便所まで用を足しに行っていた。
そいう時代だったのである。
よく見かけたのは武蔵野たんぽぽ団の村上律と中川イサト、
高田渡は焼き鳥が有名な伊勢屋に行けば時々いた
井の頭公園にも時々出没してたみたい。
ライブハウスは吉祥寺OZかフォーク系はがらん堂、
OZはPAが酷くてすぐに潰れたけどカルメンマキ&OZの名前の由来となった。
僕が住んだ時にはもういなかったけどその前までカルメンマキも住んでいたらしい。
Bluesの大木トオルなど多くのミュージシャンが吉祥寺を目指したのもこの頃。
74年には浦和から曼荼羅が引っ越してきた。
当時のミュージック・マガジンの店のコマーシャルにレコード屋の欄があった。
いつも観るのは芽璃瑠堂吉祥寺店、珍しいレコードで広告が載るたびに凄かった。
店のコマーシャルも毎月ロック喫茶赤毛とソバカスとブルースのなまずやが載っていた。
僕はブルース喫茶は阿佐ヶ谷のキングビスケットしか行ったことがないが
スライダースの土屋公平がなまず屋に関係してると思い込んでいたがどうやら違うらしい。
マイク真木 「気楽に行こう」MobilガソリンCM