「Layla」の話が出たのでモデルのPatty Boydについて話そう。

 

1962からファッションモデルとしての活動を開始。

ボイドはやや出っ歯であったため、当初はカメラマンたちに受け入れられなかった。

しかし数年の活動を経てモデルとして受け入れられ、

ロンドン、ニューヨークパリ、(マリー・クヮント等)で活躍した。

1964年には、ヴォーグのイギリス版およびイタリア版の表紙に登場。

 1960年代の人気モデルであるツイッギーは、1966年にモデル業を始めた際、

ボイドのスタイルを参考にしたと発言したと言う

 

彼女が映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』に

ビートルズファンの女学生役で出演していた。

1964年ジョージ・ハリソンと出会う。

1966年ボイドはハリスンと結婚。

そのためボイドはモデルの仕事を減らしていた。このことが離婚の原因であった。

1973年、ボイドはロン・ウッドと浮気をし、そこでハリスンとは破局した。

 

1960年代の終盤、クラプトンとハリスンは親しい友人となり、

作曲やレコーディングを共に行うようになった。

クラプトンがボイドに恋慕の情を抱き始めたのはこの頃とされている

クラプトンのデレク・アンド・ザ・ドミノス時代の唯一のスタジオアルバムである

「いとしのレイラ」は、

彼のボイドに対する愛を表明するために書かれたものであった。

二人は1979年に結婚。外面的には完璧なカップルであったが、

結婚生活は諍いに満ちていた。

1974年のクラプトンの初来日に仲良さそうにパティは同行してた。

 

またパティ・ボイドはジョージ・ハリソンから

「Something」、「For You Blue」の2曲を捧げられ

クラプトンからは「いとしのレイラ」、「ワンダフルトゥナイト」、

「ベルボトム・ブルース」の3曲が捧げられている。

僕はあらためてパティ・ボイドの凄さを知った。

結局、クラプトンとボイドは1989年に離婚した。

二人の関係が散々なものだったのにもかかわらず、

二人はその後数年に渡り友人であり続けた。

 

1976年9月7日、クラプトンはポール・マッカートニーとリンダの

年一度のバディ・ホリー・パーティに出席する際、

ボイドの準備が済むのを待っている間に、「ワンダフル・トゥナイト」を書いた。

「ワンダフル・トゥナイト」について、

ボイドは「私は何年もあの曲に傷つけられているわ。エリック」

私にとってとても嬉しかった。

「ワンダフル・トゥナイト」は二人の関係を最も強く思い出させるの。

「だから、うまくいかなくなってしまった今では、聴くことがとても苦痛だわ」

と語った。