TVをつければどの局もリオ五輪の日本人の活躍を鼓舞するアナウンサーの絶叫が木霊している。「メダルの獲得した数」とか「絶対に負けられない闘い」だとか力んだ放送を聞いていると大本営発表のように戦前に回帰してるような錯覚に陥ってしまうのは最近のこの国の政治がとてもキナ臭く感じてるのはおそらく僕だけじゃないと思う。
そう言えば「侍ジャパン」だとか「なでしこジャパン」だとか言う表現は美辞美句で彩られたマスコミの作り上げた異常にナショナリズムを煽る造語かもしれない。(明治維新で多くの武家は突然侍でなくなる、要は明日からの食い扶持がなくなるのである。工場がなくなり職と収入を失う今の市井の人々のように途方に暮れたであろう。もとより徳川幕府270余年の江戸時代の平穏に「侍魂」なんて形ばかりの旗本の見栄のようなもので中身は消失していたのだろう、だって物価は鰻上りで上がっても禄は昔のままである、多くの侍は倹約に励めども現実には貧困生活に喘いでいた。しかも侍と称する人口比率は士農工商の世で1割にも満たなかったのである。
責任の伴わない「大義名分」、臭いものには蓋をして建前だけの綺麗事が罷り通る世相、そこに真実などありうるはずもない。まさに官僚どもに操られたピエロのように国民は騙され、虚飾の世界で悲しい笑いを貪る。
60年代から70年代にはあったあの自由な本音の発想はどこに行ったのだろう、少なくとも人々は生活は貧しくても心は貧しくはなかった、夢と希望が未来にはあった。
リオ五輪は東京五輪への布石と考えればあの馬鹿げた喧噪も納得がいく。五輪は「愛と平和の祭典」というお題目を唱えた「営利目的のイベント」に姿を変えた、裏では金が乱舞して五輪開催の権利をIOCから買うのである。アスリートの方々には申し訳ないがリオ五輪の戦績は東京五輪への布石に変えられる、餌にされてるのかもしれないってことに誰ひとり気づく者はなく勝利の雄たけびを上げている。4年もの間スポーツを唱えた財団に飼いならされて洗脳されていく。「努力すれば夢は叶う」と一流アスリートに囁かせて人々の夢を煽る。
そんな筈はない、一流アスリートに成れるのはほんの一握りの人である。
多くの人は挫折から人生を学ぶ、みんなが成りたいモノになれなかったからそこからは這い上がって次の目標に向かって歩き出す。そこには本当の夢がある、そして真実も手に入れることができる。
そんな世の中がまた訪れる、60年代から70年代にあったのは時代を作っていくという人々の自負であり、古いそぐわない価値観や秩序や道徳観をぶち壊し新しいこれからのものを作りだしてきた。人々にはそういうエネルギーみたいなものを感じた。
今一番感じることは人々暮らしは便利になったけど心は貧乏になっていると。覇気がないんだ、権利ばかり主張して義務を忘れているように人々の心は荒んでいる。
そう体制にいいように飼いならされている。
いつの日かきっと人々は目覚める、そう信じてる。