ストーンズはミックとキースがバンドの広告塔になっていまだに現役を続けてる恐ろしいロックバンドである。(日本でいえばサザンがそれに近い、バンドの方向性はロックビジネスという世界に存在し過去の栄光の遺産でご飯を食べていると言える。ステージで披露されるヒット曲の数々は懐メロのように郷愁はそそるけれど、ヒットした当時のロックの本来持っていた反骨やメッセージ性は聞こえてこない。)
60年代から70年代初頭のストーンズはロックミュージックの中心にいた。その不埒な行いはなにかと騒動を巻き起こし体制側(警察、マスコミ、イギリス政府、ストーンズに熱狂する女の娘達の親達)の反感を買った。(この時代ストーンズは時代の寵児であり、最高の不良であり最高にかっこよかった。)
ストーンズの演奏は3曲目ぐらいから女の子達の黄色い声にかき消されて聞こえなくなった、古いモラルに縛らてる女の子達の親は娘の貞操が危ないと叫んだ、(あるコンサート会場では警備員が開演前に電源を切ってしまったこともあった。)夜のガソリンスタンドで5人揃って壁に立ちションをして善良な市民の通報で警察の厄介にもなった、マスコミは彼らのスキャンダルばかりを追っかけ、警察は憎っくきストーンズを陥れるために策を巡らせて彼らを狙った。

ビル・ワイマンがBBCラジオでローリング・ストーンズ結成の経緯について物言いをつけた。ロンドン近郊のダートフォード駅でミックとキースが再会しローリング・ストーンズを結成したと記された文章は撤回された。
ビルによればストーンズはブライアン・ジョーンズが結成したブルース・バンドであり、彼がメンバーに声をかけ、ミックやキースも集められたバンドの「一員」に過ぎなかった。ブライアンはデビュー当時のストーンズのリーダーでありスポークスマンでありバンド名を考えたのも彼だった。ブライアンのブルースへの情熱はバンドの音楽的な核でもあった。それにブライアンの生き様はあまりにも破天荒だった。二十歳の時点で、すでに3人の異なる女性(うち一名は14歳で出産、一名には夫がいた!)に3人の子供を産ませていた。当時ミックはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの優等生だったからまるで“別世界”の生き様だった。「セックス・ドラッグス&ロックンロール」というフレーズがストーンズの辞書に組み込まれる以前に彼はこの3つのカテゴリーを代表していた。
やがてストーンズは、マネージャーのアンドリュー・オールダムの方針で曲を書くミックとキースを中心としたバンドへと変わっていった。だがブライアンのブルースへの熱情と、その破滅的でワイルドな存在感がなければローリング・ストーンズは生まれなかった。
69年12月の「オルタモントの悲劇」の時にはブライアンはもうこの世にいなかった。6月に自ら作ったバンドをミックらに解雇された、そして7月3日泳ぎ達者なブライアンがなぜか自宅プールの底に沈んで溺死する。不思議なことにストーンズの他のメンバーは悲しまなかった。(まるでブライアンの死を望んでいたように) 2日後の7月5日、ロンドンのハイドパークでストーンズのフリーコンサートが予定されていた。(ブライアンに変わる2代目ギタリスト、ミック・テイラーのお披露目コンサートだった。) チャーリー・ワッツのアイデアで「ブライアン追悼コンサート」に急遽変更された。ミックは女物のブラウスを羽織り奇妙な詩を朗読した。ステージでは無数の蝶が乱舞していた。