ストーンズはミックとキースがバンドの広告塔になっていまだに現役を続けてる恐ろしいロックバンドである。(日本でいえばサザンがそれに近い、バンドの方向性はロックビジネスという世界に存在し過去の栄光の遺産でご飯を食べていると言っても過言ではないのかもしれない、ステージで披露されるヒット曲の数々は懐メロのように郷愁はそそるけれど、ヒットした当時のロックの本来持っていたカウンターカルチャー的反骨やメッセージ性は聞こえてこない。)

60年代から70年代初頭のストーンズはロックミュージックの中心にいた。その不届きな行動はなにかと騒動を巻き起こし体制側(警察、マスコミ、イギリス政府、ストーンズに熱狂する女の娘達の親達)の標的になっていた。(この時代ストーンズは時代の寵児であり、最高の不良であり最高にかっこよかった。)

ストーンズの演奏は3曲目ぐらいから女の子達の黄色い声にかき消されて聞こえなくなった、古いモラルに縛らてる女の子達の親は娘の貞操が危ない」と叫んだ、(あるコンサート会場では警備員が開演前に電源を切ってしまったこともあった。)夜のガソリンスタンドで5人揃って壁に立ちションをして善良な市民の通報で警察の厄介になった、マスコミは彼らのスキャンダルばかりを追っかけ、警察は憎っくきストーンズを陥れるために策を巡らせて彼らを狙った。そして69年12月ウッドストックに呼ばれなかったストーンズは自らのフリーコンサートを企画した、しかしコンサート会場は決まらず二転三転しそのたびに全米の何十万という人が全米を移動した。オルタモントに決まり会場が急設されたがすべては稚拙で酷いもんだった。もうすべての歯車が狂っていた、観客はただのロックコンサート会場に急襲し秩序のない修羅場と化していた。会場を警備するヘルスエンジェルズはこの会場の雰囲気に苛立っていた。(この模様が映画になっていた「ギミー・シェルター」では会場の控え室になってるトレーラーでミックが観客に殴られてる様が映し出されている。)

そしてコンサートは始まった、演奏者の言うことなどもう観客もヘルスエンジェルズも聞く耳を持っていなかった、観客とヘルスエンジェルズのつばぜり合いはエスカレートしジェファーソン・エアープレインの演奏時には激しさのあまり演奏は中断されバンドメンバーがヘルスエンジェルズに殴られるというハプニングが起こる。

やがてステージにはストーンズが登場しミックは観客やヘルスエンジェルズに「仲良くやろうぜ」と呼びかけるがどちらも聞いちゃいない、そして6曲目の「Under My Thumb」の演奏中事件は起こった、聴衆の黒人男性がヘルスエンジェルズに殴り殺されたんだ、この事件は「オルタモンとの悲劇」という名でロック史に刻まれた。

67年モンタレーで初めて催されたロックの野外コンサートはカウンターカルチャーの下に古い価値観を捨て新しい価値観が生まれた。ロックは息づき、ヒッピーはたしかにいて「愛と平和」を叫び泥沼化したベトナム戦争を憎んだ。娘たちは裸足で髪には花飾りをつけフラワーチルドレンと呼ばれていた。ジミヘンとジャニスはモンタレーでのパフォーマンスが映画になって全米を駆け巡ると一気にスターダムの階段を駆け登った。(ジミヘンを紹介したのはブライアン・ジョーンズだった。奇しくも69年ブライアンが、70年にジミヘンとジャニスが27歳で人生の幕を下ろしている。)

モンタレーから2年半の年月を経てオルタモントで「愛と平和」は打ち崩れた、それは幻想だった、ロックは何も変えられなかった。そしてロックは巨大な音楽業界にスピリットは取り外されて形骸化して営利産業としてのビジネスに組み込まれていった。

ロックのスピリットは終焉を迎えた。これが「ロックが死んだ」と言われる由縁であるのかもしれない。

7月3日はブライアン・ジョーンズの命日。ローリング・ストーンズを脱退して一か月後、1969年同日、自宅にあるプールの底に沈んでいるところを発見された。アルコールとオーバー・ドラッグによるものとされているが他殺説もあり、その死因は未だ謎である。27歳という若さであった。

ビル・ワイマンがBBCラジオでローリング・ストーンズ結成の経緯について物言いをつけた、ということが大きな話題となっている。今年2月にロンドン近郊のダートフォード駅に設置された「ミック・ジャガーとキース・リチャーズが1961年10月17日、ロンドン近郊のダートフォード駅の2番線ホームで再会し、そこからローリング・ストーンズを結成することになった」と記された銘板の文章まで変更せざるを得なくなったというから、ことは尋常ではない。ビルによればストーンズは、あくまでブライアン・ジョーンズが結成を目指したブルース・バンド構想が元にあり、彼がメンバー一人ずつに声をかけ、ミックやキースもそれにより集められたグループの「一員」に過ぎなかった、というのだ。デビュー当時のストーンズのリーダーでありスポークスマンであったのはブライアンだったし、デビュー・ライヴに際しグループ名を考えたのも彼。ブライアンのブルースへのピュアな情熱はバンドの音楽的な核でもあった。そこにさらに付け加えたいのが、ブライアンのあまりにも破天荒な生き様だ。バンドを始動させる二十歳の時点で、すでに3人の異なる女性(うち一名は14歳で出産、一名には夫がいた!)に3人の子供を産ませていたという彼は、当時ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通っていた優等生ミックなどとはまるで“別世界”の荒んだ生活を送っており、ビルに言わせると「セックス・ドラッグス&ロックンロール」というフレーズがおれたちの辞書に組み込まれるずっと以前に、彼はこの3つのカテゴリーをすべて完璧に代表していたのだという。

やがてストーンズは、マネージャーに就任したアンドリュー・オールダムの方針もあり、曲を書くミックとキースを中心としたバンドへと変わっていくが、ブライアンのブルースへの熱情と、その破滅的なまでにワイルドな存在感がなければローリング・ストーンズは生まれなかったし、生まれていたとしてもお馴染みのあの「ならず者」的イメージを持ち得ていなかったであろうことは確かだ。69年の「オルタモントの悲劇」の時にはブライアンはもうこの世にいなかった。

6月に自ら作ったバンドをミックらに解雇された、そして7月3日泳ぎ達者なブライアンがなぜか自宅プールに底に沈んで溺死する。

不思議なのはストーンズの他のメンバーがあまり悲しまなかったことである。(まるでブライアンの死を望んでいたように)

2日後の7月5日、ロンドンのハイドパークでストーンズのフリーコンサートが予定されていた。

(ブライアンに変わる2代目ギタリスト、ミック・テイラーのお披露目コンサートだった。)

チャーリー・ワッツのアイデアだとかで「ブライアン追悼コンサート」にお題目は急遽変更された。ミックは女物のブラウスを羽織り奇妙な詩を朗読した。ステージでは無数の蝶が乱舞していた。

 

追伸:僕はストーンズの初来日のコンサートに行った。東京ドームでスクリーンに映される彼らを眺めてた。

その時の印象は金稼ぎのバンドになったと思った。繰り出されるヒット曲はまるで懐メロのようで生気を感じなかった。僕の好きだったストーンズがそこにはいないことを確信するともうストーンズのコンサートに来ることは2度とないと思った。

そういえばキースが履いていた蛇皮のロンドンブーツが欲しくて四谷3丁目のSAシューズで作ったブーツはどうしたんだろう?

知らず知らずのうちに僕も自分の中のストーンズを葬り去ったのかもしれない。