『死者のカタログ‐4』
1977年9月16日、マーク・ボランが自動車事故で亡くなった。2週間後に彼は30歳になるはずだった。新聞の死亡欄に書かれたボランの記事はピークは過ぎていたとは言えとても小さな扱いだった。このことから故中村とうよう氏がミュージックマガジン社から『死者のカタログ』という本を出した。

その本にはジャニスやジミヘンなど若くして死んだミュージシャンのことが書いてあった。多くのロックミュージシャンの死はドラッグによるオーバードースが起因してた。
たとえばジミヘンとジャニスは67年のモンタレー・ポップ・フェスティバルの出演で一躍スターダムを駆け上った、そして70年の9月と10月にドラッグのオーバードースが原因で相次いで亡くなってる。実質3年間ぐらい活動しただけなのに彼らの音楽は50年近くも経った今でも生き続けてる。何故なのだろう。肉体は死しても彼らの残した伝説と音楽は生き永らえている。

★キース・ムーン(ザ・フーのドラマー)1978年9月7日、アルコール依存症を抑制するヘミネプリンの過剰服用によって死亡。(なんといっぺんに32錠も飲んだらしい。蛮行、奇行で有名なキース・ムーンなら考えられる。)

享年32歳

1955年、映画「暴力教室」を観てロックミュージックに目覚める。15歳で学校卒業後1964年、ザ・フーに加入するまでの3年間で23回も職業を変えたという。
1965年、ザ・フーはファーストシングル、「アイ・キャント・エクスプレイン」が全英8位という好調なスタートを切るが、バンド内はドラッグの使用をめぐりロジャー・ダルトリーと他の3人の関係に暗雲が立ち込めていた。ダルトリーはドラッグでハイになったムーンに激怒し、彼のドラッグを全てトイレに流してしまう。ムーンはタンバリンを武器にダルトリーに襲い掛かるが、ダルトリーに逆に殴り返され気絶してしまう。タウンゼント、エントウィッスル、ムーンの3人は怒って全員一致でダルトリーの解雇を決めるがダルトリーの謝罪とマネージャーのキット・ランバートの説得によって何とか収まったというトラブルがあった。
だがバンドの内紛はこれで収まらなかった。1966年になると今度はムーンが脱退をほのめかすようになる。同年2月彼はちょうど前任のドラマーが脱退したばかりのアニマルズへの加入を企てる。同年5月、ジェフ・ベックに招かれセッションに参加。他のメンバーはジミー・ペイジ(ギター)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)。ムーンはこのバンドをレッド・ツェッペリンと名付けた。(なんとレッド・ツェッペリンという名はムーンが考えたのだ。)このセッションで「ベックス・ボレロ」を録音した。これがムーンにとってプロデビュー後初のザ・フー以外での仕事となったが、後日タウンゼントはムーンのこのセッション参加について「キースはこうする事で俺達にザ・フーに戻ってきて欲しいと言ってほしかったのさ」と語っている。
1970年1月、パーティの帰りに若者の集団に囲まれた。彼の運転手だったコーネリアス・ボランドが道を空けさせようと車から降りたところを、ムーンが誤って車を発進させ、ボランドを轢き殺してしまう。ムーンは裁判所でボランドの死が事故と断定され、無罪となる。ムーンは飲酒のうえに無免許でもあったがこれも情状酌量となり刑罰はなかった。だがこの事件はムーンに暗い影を落とし、以後彼の奇行はさらにエスカレートしていく。
1973年、妻のキムが娘を連れて家を出て行くと、ムーンは増々自暴自棄になった。同年11月のロサンゼルスのコンサートで、コンサート前に酒に動物用の鎮静剤を混ぜて飲んで、コンサート中に倒れてしまう。同年12月にはホテルを破壊し、タウンゼントやエントウィッスルらと刑務所に入った。(ダルトリーだけはこの事件には関わっていない。)
1976年1月、アルコールの禁断症状を起こし一時意識不明に陥る。同年8月にはマイアミで致死量に至るほどの飲酒をし、入院を余儀なくされる。そして医師から「飲酒を控えなければ3ヶ月以内に死ぬだろう」と宣告された。それでもムーンの荒んだ生活が改まる事はなかった。、健康状態は悪化の一途辿って行ってザ・フーは1976年後半から1978年のムーンの死までライブ活動が出来なくなってしまった。
ムーンの死の翌日、タウンゼントは「俺達はロック界きっての天性のドラマーを失った。俺達は彼を愛していたが、彼は逝ってしまった。だが俺達は、活動を続行する。たとえ彼の代わりになる人間などいないとしてもだ。」という声明文を発表した。翌1979年、元フェイセズのケニー・ジョーンズを加入させ本格的に活動を再開するが、やはりムーンを失ったザ・フーは機能せず、1982年12月を持ってザ・フーは一旦解散する(3年後のライブ・エイドでザ・フーは復活する。)
ムーンは「変人」「壊し屋」としてもかなり有名であった。彼はホテルの窓、友人の家、はたまた自分の家でさえも、窓から家具を投げ捨て配管に爆竹を仕掛け、廃墟にしてしまう。

1967年、テレビ番組「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」の中でムーンは自分のバスドラムに閃光粉を仕込み曲の最後に爆発させた。この爆発でタウンゼントの耳が一時聞こえなくなり、ダルトリーも鼓膜が破れ、ムーン自らも脳震盪を起こした。
爆竹でトイレは破壊する、自宅の窓はショットガンで吹き飛ばす、ユダヤ人にヒトラーの真似をしたために包丁を持って追い駆け回されたり、ムーンの奇行を挙げたらきりがない。必ず部屋を破壊するため全てのホテルチェーンから出入り禁止になった。彼が参加したパーティはむちゃくちゃになった。そして彼は必ず全裸になった。彼の悪戯で入れるパブは無くなり自ら出資してパブを作った。カリフォルニアに移り住んでからもムーンの奇行は止まることを知らなかった。隣人のスティーヴ・マックイーン宅にバイクで突っ込んだり、彼の息子にマリファナを勧めて断られたら殴り合いを始めた。女装癖もあった、ボンデージを着用してSM嬢にムチで叩かれながらインタビューを受けたこともある。1978年7月にも、飛行機内で操縦室に乱入し操縦台でドラミングの真似をして、飛行機から降ろされるという奇行も演じた。彼はみんなから「狂人ムーン」と呼ばれた。
数々の蛮行に「ドラマーとしての評判に傷がつかないか」と質問されたムーンは「俺は偉大なドラマーになろうなんて思わない。ザ・フーでドラムスが出来ればそれでいいんだ」と答えたという。こんな激しい生き方をキースは演じた、あの時代はムーンを翻弄した。モンタレーで、「マイ・ジェネレーション」でタウンゼントに負けじとドラムを叩き壊すキース・ムーンがいた。ムーンが最期を迎えたフラットはモンタレーに同じく出演したキャス・エリオットが1974年に眠った場所でもあった。
ダルトリーが「キースを救ってあげられなかった事を非常に後悔している」と後に語っていた。
-To be contenued-


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