『死者のカタログ‐2』   -TWENTYSEVEN-
1977年9月16日、マーク・ボランが自動車事故で亡くなった。2週間後に彼は30歳になるはずだった。新聞の死亡欄に書かれたボランの記事はピークは過ぎていたとは言えとても小さな扱いだった。このことから故中村とうよう氏がミュージックマガジン社から『死者のカタログ』という本を出した。

その本にはジャニスやジミヘンなど若くして死んだミュージシャンのことが書いてあった。多くのロックミュージシャンの死はドラッグによるオーバードースが起因してた。
たとえばジミヘンとジャニスは67年のモンタレー・ポップ・フェスティバルの出演で一躍スターダムを駆け上った、そして70年の9月と10月にドラッグのオーバードースが原因で相次いで亡くなってる。実質3年間ぐらい活動しただけなのに彼らの音楽は50年近くも経った今でも生き続けてる。何故なのだろう。肉体は死しても彼らの残した伝説と音楽は生き永らえているのだ。

★イアン・カーティス(ジョイ・デヴィジョンのヴォーカル) [1980年5月18日没 享年23歳]

ジョイ・ディヴィジョンのヨーロッパ・ツアーを終了させ、アメリカ・ツアー目前の1980年5月18日に首を吊り自殺した。持病のてんかんの悪化と妻と愛人との問題などで悩んでいたのが原因とされる。
遺作となった3枚目のアルバム『クローサー』は英チャート6位のヒットとなった。
墓石には妻デボラの希望によりジョイ・デヴィジョンの最大のヒット曲「ラブ・ウィル・ティア・アス・アパート 〈Love Will Tear Us Apart〉 (愛が私たちを引き裂いていく)」の文字が刻まれた。
残った3人のメンバーがバンド名をジョイ・デヴィジョンからニュー・オーダーと変更したのはご存知のことだと思う。(ジョイ・デヴィジョンのメンバー4人のうち一人でも欠けたらバンド名を変えることになっていた。)
イアン・カーティスの自殺を知らされた日のことを歌ったニュー・オーダーの「ブルー・マンデー」は世界的な大ヒットとなった。

★シド・ヴィシャス(セックス・ピストルズの2代目ベーシスト)[1979年2月2日没 享年21歳]
薬物の過剰摂取のため死亡。
ミュージシャンとしてのシドのプロフィールよりも映画にもなった「シド&ナンシー」の関係の方がショッキングなことだったので横道に逸れるがそっちの方を記す。
1978年10月13日にニューヨークにあるチェルシーホテルのバスルームで恋人のナンシー・スパンゲンの死体が発見された。凶器のナイフがシドの所有物であったことから、麻薬で錯乱したシド自身が刺殺したと言われているが真相は違うらしい。
レコード会社が多額の金を払いシドは保釈されるがその後何度も自殺未遂を繰り返した。死後、シドの革ジャンのポケットから直筆の遺書らしきメモが発見される。
『俺達は死の取り決めがあったから、一緒に死ぬ約束をしてたんだ。 こっちも約束を守らなきゃいけない。今からいけば、まだ彼女に追いつけるかも知れない。お願いだ。死んだらあいつの隣に埋めてくれ。レザー・ジャケットとレザー・ジーンズとバイク・ブーツを死装束にして、さいなら。』
とある音楽雑誌の記者はナンシーとシドのことをこう記している。
「若い女性がひとり死んだ。私は気にしない。あなたもおそらく気にしない。警察も気にしない。新聞も関心を示すことはない。ほとんどのパンクスも気に留めない。悲しむとすれば(私が思うに)彼女の両親と、(ほとんど確信するが)彼女を殺して起訴された少年だけだ。」と・・・・

★ジム・クロウチ [1973年9月20日没 享年30歳]
ジム・クロウチという歌手を知っている人は少ないし彼のことは死んでから日本では紹介された思う。それは1973年の出来事だった。ジムはコンサートを終えて次のコンサートへに向かおうとした時彼を乗せた小型飛行機が離陸した直後木に接触して墜落した。そしてジム帰らぬ人となってしまった。
工事現場で働いたり臨時教員をしたりして本当に苦労して歌手デビューした。やっとこれからという矢先の事故だった。
彼の死後3ヶ月後ジムの遺作のアルバムがリリースされた。このアルバムの冒頭を飾った曲が映画「ラスト・アメリカン・ヒーロー」の挿入歌になった「I Got A Name」だった。
わずか5枚のスタジオ録音アルバムと11枚のシングルを残してジムは逝ってしまった。(「リロイブラウンは悪い奴」というシングル曲がビルボードの全米No.1のヒットとなった。)


★ポール・コゾフ(フリーのリード・ギター) [1976年3月19日没 享年25歳]
エリック・クラプトンも「彼のようには弾けない」とぼやいたとされる天才ギタリスト。ポール・コゾフのギターは一度聴くと忘れられない。ビブラートを効かせた人の泣き声のような音色を聞かせた。人呼んで「泣き節」のギター。「ライオン丸」のようないかつい風貌だが、内向的、大変繊細な人。
ロサンゼルスに向かう飛行機の中で英国人が死亡していた。それがポール・コゾフだった。ドラッグが起因してでボロボロになった末の心臓発作だった。
ポール・コゾフが在籍したフリーというバンドはスゴいバンドだった。(山内哲という日本人のベーシストが後期在籍した。)英国一艶のあるソウルフルなヴォーカリスト、ポール・ロジャース、ポコポコ飛び跳ねるアンディ・フレイザーのベース、後乗りでグルーヴするサイモン・カークのドラミング、そしてチョーキングでビブラートさせ泣き捲くるポール・コゾフのギターを擁していた最強のバンドだった。しかもみんな十代だったのにテクニックは群を抜いていたんだ。「ウマい」って表現は似合わない、やっぱり「スゴい」っていう表現の方が似合っていたバンドだった。
コゾフは別に早弾きとか馬鹿テクとかを誇るギタリストではなかった。コゾフの「泣き節」のギターに心酔するプレーヤーが多い,それはどうしてもコゾフのようにギターを弾くことができないからだろうか…


★エイミー・ワインハウス [2011年7月23日没 享年27歳]
北ロンドンの自宅アパートで遺体となって発見される。
死因は致死量を超えたアルコールの摂取による急性中毒死と発表された。
薬物過剰摂取説が囁かれていたが真相は不明。
トレードマークはドレープヘアーとキツネ目のアイシャドー。社会のモラルに適合出来ずどうしようもない男に惚れて破滅への道を辿った人生、歌は上手さじゃない、エイミーの歌には哀しく笑っていたジャニスのように胸を締め付ける何かが感じられらた。そして死後、ジャニスのいる「The 27 Club」に入った。
命を削るように歌い、酒に溺れ、ドラッグに溺れ、セックスに溺れる、放蕩の限りを尽くした女性シンガー。彼女が9歳の頃に両親は離婚している。
2006年に発表した『Back To Black』の世界的なヒットでスターダムへ登りつめる。だが彼女を酒とドラッグの道へと引きずりこんだとされるかつての恋人との破滅的な恋愛が再燃。彼女の転落の人生が始まる。
2007年に4歳年上のブレイク・フィールダー・シビルと結婚。エイミーは夫の影響でアルコールとドラッグに依存するようになる。
ブレイクと出会うまでのエイミーは薬物とは無縁だった。彼と付き合うようになってからは薬物にハマりどん底に堕ちていった。結婚後間もなく夫婦揃ってリハビリ施設に入所。その後も薬物で何回も逮捕されブレイクと破局と復縁を繰り返した。
生活は荒みエイミーの歌の天分も塞がれていった。2009年8月にブレイクと離婚。その後は薬物とアルコールに依存する人生の坂道を駆け下りていった。
‐To be continued-