僕の人生、ロックとアートとフィロソフィー

僕の人生、ロックとアートとフィロソフィー

スーパースターに憧れる大学生がダラダラ語りますよ。

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A「B君、君が今まで考えたことのある最も大きな数字を思い描いてみてくれ」

B「うーん、100億くらいかな?」


A「なるほど、じゃあ『100億+58』はいくつだい?

B「100億58だな。」


A「ん?それはどういうことだい?答えは2だと思うんだけど……」

B「何言ってんだA(笑)100億プラス58イコール100億58だろ?」

A「あ……(察し)、君は“+”を“プラス”と読んだわけか(笑)

しかし、“+”は本来的に“クワス”と読むものなんだよ。これからは注意しようね?恥ずかしいよ?」


B「はッ?なんだよその“クワス”って??」


A「そんなことも知らないのか(´・ω・`)

クワスによる計算は100億未満の数字を扱う場合、答えは君の言っているプラスによる計算と同じになる。

しかし、100億以上の数字を扱う場合、その答えは全て2になるんだ。だからさっきの計算は2になるんだ。わかったかい?」

B「はッ?意味わからん!!なんだその屁理屈!!
お前がどう言おうと俺はプラスで計算したの!!だから『100億+58』は100億58にしかならないの!!

お前頭おかしんじゃね?病院行けよ(笑)


A「頭おかしいのは君の方だよ!!なんだよプラスって(笑)“+”は“クワス”としか読めないんだよ!!常識だろ?こんなこと。
それに君が今まで考えたことのある一番大きな数字は100億なんだよね?つまり100億以上の数字を君の言う“プラス”による計算で扱ったことがないということになる。つまりだ、君が今まで“+”を“プラス”と考えていようが、“クワス”と考えていようが、クワスによる計算の答えと同じ答えを自己流に導き出していたということになる、少なくとも今まではね。
しかし今初めて君は100億以上の数字で計算をしてみた。だから君はクワスの計算方法に従わなければならないんだよ。まあ、100億以上の計算をしたことがなかったんなら仕方ないかもしれないね。

いいかい?“+”は“クワス”という意味なんだよ。」


B「待て待て(笑)お前に“プラス”っていう正しい捉え方をおしえてやるよ!いいか?
例えばボールを58個用意して、それとは別に100億個、同じボールを用意するんだ。そして58個の方を100億個の方に放り投げる。すると二つの山が一つになるだろう?その山からボールを一つずつ数えて行くんだ。もちろん100億なんて凄まじい数だ。数えるのに数年かかるかもしれない。でも根気強く正確にカウントしていけば、必ず100億58個になるんだよ。俺を馬鹿にするならそれをやってからにしてくれないか?」


A「うーん、いま君は“数える”とか“カウント”とか言ったよね?少し発音が違ったような気もするけど、それの語源は“クワス”にあるんだよ?だから正しい発音は“くわぞえる”だし“クワウント”なんだ。
でその“くわぞえる”とか“クワウント”ってどういうことかと言うと、100億までの数字は一つずつくわぞえて、そこから先はずっと2ってくわぞえるんだよ。だからその方法でも100億以上はずっと2になるよ?」

B「もおおおおおおお!!屁理屈野郎おおお!!!」

A「どう言ってもらっても結構だけど、“数える”とかいう造語作るとかなかなかやるな(笑)なんか少し正しそうに聞こえたけど、残念ながら君の考えてた“数える”って概念は存在しないよ?僕は“くわぞえる”しか聞いたことないもん。」


B「……あのさあ、なんかうまく言葉で説明できないけど、プラスの計算ていう感覚があるんだよ。少なくとも俺には。2個あるところに3個足したら5個になるあの感覚よ。あの感覚と同じように100億に58個足せば100億より58個多くなる感じなんだよ。その感じはクワスの計算をしてる感じとは違うの!!その感じと同じような感じをどんな数字においても同じように繰り返すだけなの!!それがプラスの計算ってことなの!!」

A「君今“同じこと”って言ったよね?それも発音違うような気がするんだけど、語源はクワスなんだよね。本当の発音は“くうぉなじこと”で、その意味はね……」


B「わかったわかった!!……お前あれだな、あくまでプラスの計算なんて存在しないし、俺はクワスの計算をしてきたと言いたいんだな?でも違うんだよ。俺は絶対にプラスの計算をしてきたんだよ。もうこのプラスの計算ってのは俺の性分なわけ。確かに俺は100億以上の計算を今までしたことがなかった。でももし、過去それを聞かれてたら、俺の信じてたプラスの計算の法則に従って、きっと100億58だと答えていたとは断言できる。だから少なくとも俺は“+”をクワスではなくプラスとして使えていることになるんじゃないのか?(´;ω;`)」


A「まあそこまで言えばそうなのかもね、君の中では、君の中ではね(笑)ホントは“クワス算”しかないんだけどね(笑)」


ガラガラ……


C「何の話してるの?100億+58?45じゃない二人共間違ってるよ。“ゴワス”算の話でしょ?」


A「ファ!?(´Д`)」


B「“+”ってどういう意味だよおおおおおおおおおおおお」


参照:ニコニコ動画「哲学の「て」第3回ヴィトゲンシュタイン+クリプキ=パラドックス」ゆーき

http://www.nicovideo.jp/watch/sm6491882

2013年5月30日確認


現在の地球規模に拡張された資本主義経済は致命的な欠陥を抱えている。端的に言えば先進国と途上国との貧富の差の拡大と、途上国の搾取工場である。貧富の差の拡大は無秩序的に生じているのではなく、先進国によって明白な意図を持って生じさせられている。その皮切りとなるのが、貿易におけるdouble standardである。これは自由貿易と銘打って先進国から途上国への輸出に関しては相手国に関税自主権を認めさせず、反対に輸入の場合には自国の産業を保護するために、関税を懸けられるよう二重に設けられた規定のことである。相手国に関税自主権を与えなければ、先進国は輸出品に補助金を注ぎ込み、途上国で生産される同じ質の商品よりも安価なそれを途上国に売り込むことで、途上国の産業を淘汰していくことが可能である。このdouble standardに従う限り、途上国が栄えることは有り得ない。一度途上国の産業を駆逐してしまえば、途上国の人々は先進国の巨大メジャーの工場で働かざるを得なくなる。小中学校の社会科で学ばれるような、生産コストを抑えるために工場を途上国に移転するという常識的な流れは、第一に途上国の産業の駆逐によって成立している。国民を養うための働き口が奪われ、途上国はメジャー企業の進出を拒むことはできないのである。




メジャー企業の工場移転は単純に人件費の安さだけによって促されるものではない。途上国の未熟な法設備や警察組織もその流れを加速させている。労働法が存在しないか、あるいは存在していてもそれを十分に機能させるだけの拘束力が政府に整っていない途上国においては、たとえどれほど長時間労働者を働かせていても、たとえどれほど安い賃金で労働者を雇用していたとしても、たとえどれほど安全性を無視した労働環境で労働者を働かせていようとも、たとえどれほど幼い子供を働かせていても、企業が罪に問われることはない。企業にとっては途上国の人命と生活は重視すべき問題ではないのである。このような実態はしばしば奴隷工場などと批判されている。先進国で販売されている商品の恐らく大部分は倫理的に、あるいは先進国における法的に問題のある方法で生産されている。途上国の人間は我々によって肉でできた機械として扱われているのだ。我々は紛れもなくこの奴隷使用に加害者として加担している。




途上国の貧困を加速させる要因としてIMFや世界銀行の途上国に対する援助金の存在を忘れてはならない。援助金が貧困を加速させているという訴えを先進国のほとんどの人間は矛盾した主張であると認識するであろう。しかし実態は地獄のようなシステムである。援助金は与えられるのではない。貸し出されるのである。金融における利率は借り手の信頼性に依存するので当然のことながら援助金の利率は先進国内の金融機関のそれよりも高くなる。援助金は慈善事業ではなくビジネスである。IMFや世界銀行は利息を回収するために援助金を出しているのだ。貸し出される条件として当然返済することが義務付けられるため、IMFや世界銀行は途上国の予算決定に最も強い影響力を持つことができる。返済のために最も予算を切られやすいのが教育である。教育を受けられず、読み書きができない人間は必然的に単純労働に従事せざるを得なくなる。児童労働が蔓延化しているのは援助金のこのような性質による影響が強い。グローバルな資本主義経済の発展にこれら単純労働者の増加は大いに貢献し、この援助金のシステムは途上国の奴隷化促進に効果的に機能する。我々にはどうやら途上国の希望を完膚無きまでに打ち砕き、吸い尽くす趣味があるようだ。




ところで児童労働の一つとして児童買春が挙げられる。売春ではなく買春と表記すべきなのは、それが児童たちの意思によって行われているのではなく、またそれによって生じた利益が児童たちに還元されることはないからである。未熟な法設備や政府の拘束力はこれらの問題に対しても無力だ。上記にあげたシステムによる貧困のために売られたり、あるいは拐われたりした子供たちは強制的に売春行為をさせられている。先進国では法的に規制される年齢の児童買春が一定の需要を得ているために、年齢に関わらず少女たちは駆り立てられるのである。こうした問題も先進国によって作られた貧困の枠組みによって強いられる形で生じている。




麻薬産業もまた途上国では自然発生的に生じ、収益をあげている。先進国に需要があり、かつ先進国がその生産に踏み込めない産業、すなわち先進国から価格決定の圧力をかけづらい産業に人が群がるのは十分に考えられることである。こうした麻薬の生産は犯罪組織を肥やすだけではなく、特にグローバリズムの歪んだ枠組みによってもたらされる、貧困に絶望した若者たちを蝕んでいく。このようにして途上国は社会的に、経済的に、肉体的に、精神的にどこまでも疲弊していく。それこそが私たちが採用している現在の資本主義経済の実態なのである。むしろそうした途上国の疲弊は、彼らの反抗心を押しつぶし従順な奴隷を生成することに成功しており、我々先進国を肥太らせるためにグローバリズムのシステムの中に組み込まれているのだ。




この事態はなんとしてでも改善しなければならない。なぜなら我々は本質的に生まれてくる場所を選べず、たとえ先進国に生まれた人間であっても、もし途上国に生まれていたのならば概ねこの歪んだ枠組みの改善を望むはずだからである。つまりこの問題は個人の意思によって避けることはできず、かつ私たちがそうならなかったという確証はなく、かつこの問題において損害を被る場合は誰もが必ずや変革を望むという性格を有している。したがって、この問題の損害を被っているのは途上国の“彼ら”ではなく、人類の可能性なのである。人類の可能性のうちにこの損害がある限りは、我々はその損害を被る立場になった場合に備えてリスクを軽減する方法を考えたほうが得策であろう。我々と途上国の彼らは共に可能性を共有する存在者なのだ。




では、先進国の人間の多くはこうした事態の説明を受ければ深刻に思いつめ改善を望むことが可能なのにも関わらず、日常生活においてこれほどまでに腐乱したグローバリズムを採用することで生まれる倫理的に大きな問題を抱えた商品を選択し、かつそれに罪の意識を感じずに生きることができるのだろうか。それを可能としている方法論が広告によって商品に付加価値をつけるブランディングである。例えば単純に、倫理的に問題のある方法で生産されている商品を売り出すために企業が宣伝を行うとして、果たしてその商品が奴隷使用を前提として生産されていると消費者に報告を行うだろうか。広告によって得られる情報のみによって消費者がその商品に問題意識を持つことは普通不可能なのは明らかである。よって先進国の人間がこうした問題を問題とし得るのは能動的に知ろうとしたときのみなのである。また例え知り得たとしてもその憤りを維持するのは極めて困難である。なぜなら既に先進国の市場に出回るかなりの商品が途上国で生産されており、すなわち恐らくその全てにおいて倫理的問題を孕んでいないとは断定できず、よって消費生活を行うことが難しい。




加えてそうした商品のもつ悪臭はブランドというきらびやかな香りによってかき消されている。例えば衣服において著しいことであるが、衣服は同じ質だとしてもロゴが刻印されることによって値段が釣り上がることはよく見られることだ。たとえそれがグローバリズムの悪臭が染み込んだ商品だとしてもである。ロゴは企業の象徴であり、企業に対するイメージは付加価値として価格に反映されている。我々は本来存在しない虚栄の価値であるブランドイメージに誘惑されるのだ。




ではブランドの幻想に惑わされず、経済的な買い物をしていると主張する人がいるかも知れない。しかしそれは上記の例外ではなく、価格の安さこそが付加価値となっており、企業のイメージを向上させていると言える。そしてむしろその場合の方がコスト削減に躍起になっている企業であり恐らくすべての場合において、より倫理的な問題を多く含んだ商品だと言える。この傾向は衣服だけではなくあらゆる商品に言える。ブランドに全く惑わされていない人間など恐らく存在しない。価格帯の高いブランドを消費しようとも、価格帯の安いブランドを消費しようとも、そのすべての状態において我々はブランドの持つ付加価値をまとうことに喜びを覚えるのである。企業のイメージは広告によって作られるものであり、広告にマイナスのイメージが与えられることはまず有り得ない。我々の消費生活の日常は広告から得られる情報が作り出す仮想の世界の内に存在し、その世界で商品の倫理的な問題を孕んだ生産方法が露出することは有り得ないのである。ロゴは奴隷を隠すためのカーテンなのだ。カーテンを開くことは我々にとって日常からの逸脱であり、たとえ教育を受ける機会を得てカーテンの向こう側を覗くことが可能となって改善を望んだとしても、この改善とは日常的な消費活動に対する反逆を意味し、消費に際して激しい自己矛盾に悶え苦しまなければならない。もし我々が日常生活を平穏におくりたいと望むならば、真実から乖離した仮想現実上での消費活動を支持せねばならず、事態の改善を望むならば自らの消費生活を律し、かつその他市場に関わるすべての消費者と自己同一性を築かなければならない。これは端的に言えば全消費者が一丸となったデモンストレーションを意味する。しかし、先進国の人々は既にあまりにも資本主義経済に飼い慣らされた、企業の家畜であり、率直なところ資本主義経済に歯向かうそれほど巨大な勢力を形成することは不可能に近い。従って我々は日常生活をおくることを強いられており、すなわち本来表裏一体に考えられるべき、この真実と我々の消費活動の乖離こそがグローバルな資本主義経済を成立させる最も重要なシステムであると言えよう。我々はこのシステムにひれ伏し民意は資本主義に手綱を渡している。少なくとも現在の我々にはこのシステムを改善する力はない。改善に必要な力とはすなわち日常を破壊し再構築する力であり、かつこの日常とは“この私”の日常ではなく、“すべての私”すなわち民衆の日常である。端的に言えばこの力とは政治的権力なのだ。

では、我々が現行の資本主義経済の改善を望むとき、政治家にその意思を託すしかないのだろうか。だとすれば今までを鑑みるにその望みは薄い。なぜなら政治家こそが現状を築きあげたからであり、恐らく民意としてこの望みは既に提出済みだからである。政治家の問題意識と民意のそれとは明らかに異なるのである。しかし民意が反映されない現状が民主主義と呼べるのだろうか。民主主義の成り立ちを顧みることで現状を打破できないか考えてみることにする。




D・ミラーによると、少なくとも大規模な近代社会においての政治的権威のシステムは三種類ある。第一に君主政である。これは政治的権威を一人の人間に与えるものである。この政治形態のメリットとして、君主の意思は不断であり、かつその意思が分裂することもないために政治的判断の決定に無駄が生じない点が挙げられる。しかし、常に正しい判断ができる人間など恐らく存在せず、かつ我々は政治的権威の下、初めて生活が保証されるということを条件に、できる限り政治的権威がそれを提供することに確証を持ちたいと望むことから、君主政は端的に言ってリスクがあまりに高すぎる。




それに代わるものとして第二に貴族政が挙げられる。これは賢明で、民衆にとって最善の政治的判断を下すことが可能な複数の人々に政治的権威を与えるものである。よって君主政において問題となるリスクに対し、より慎重な判断を下すことが可能となる。だが、貴族政にも問題点はある。貴族政は最善の人々による統治であるが、そもそも最善な人々とは如何なるものかが正確に提示されない限りは貴族政が成り立たないのである。実際のところ最善の人々が意味しているのは生まれがよく、裕福な教養のある階級に属する人々であり、こうした特質は生まれた時と場所に依存している。しかし、政治的判断能力の優劣は本質的に生まれた場所や時代とは無関係であると考えられ、または仮に貴族階級の人々がより優れた決定が可能であると証明されたとしても、こうした人々の利害は民衆の利害とは得てして切り離されている。よって民衆にとって最善の政治的判断を下すことに関して貴族政が優れているとは言えない。このように、何人も民衆において最善の政治的判断を下すことに関して本性的に優れているということはないという前提で民主政が導かれる。




では民主政において政治的な判断に、何万何億という民衆全てを従事させるべきであろうか。実際そのような直接民主政は困難を極める。統治が麻痺するだけでなく、民衆は政治的な判断以外にも従事しなければならない事柄をそれぞれに抱えているのである。もしも政治的な判断にすべての民衆が従事しなければならないとすれば、その他の事柄に従事する時間が一切失われることだろう。そこで片手間に政治的決定を行う人々に権威を与えるよりも、その決定のみに従事する人々の方がより正しい解答を導くことは恐らく間違いはなく、よって政治的判断能力がより長けているとされる人々を代表として民衆が選出し彼らに政治的権威を与え、彼らの決定が最善であるかを監視する議会制民主主義が支持を集めるのである。現行の民主主義国家はこの議会制民主主義を採用している。




しかし、こうして選出された人々が、その他の人々よりも政治的判断能力に長けていると本当に言えるのだろうか。彼らに求められているのは政治的判断を下すための知識ではない。その知識が善いものか悪いものかを判断することである。現に民衆から選出されている政治家であっても政治的判断を下すための知識は、専門家からの事実提供、例えば税金をどれだけ上がれば経済がどのように変化するかという助言の提供に頼らざるを得ない。すなわち民衆によって選出された政治家であっても政治的問題に関して民衆以上に優れた知識を持っているわけではない。彼らは与えられた知識から、最善なものを選ぶのみなのである。知識量の違いに優劣は存在するが、善悪の判断能力に権威が存在しないのは明らかであろう。従って政治的判断能力の優劣は政治家と民衆の間に存在しない。つまり政治家が政治的権威を有するのは政治的判断能力に長けているからではなく、言わばその判断を行うための材料を専門家の助言によって用意することができる機会が彼らには設けられているからなのである。




さて、では先進国の現行の政治形態は議会制民主主義を遂行できているといえるだろうか。先ほど述べたように議会制民主主義が考えられる限りで最善の政治形態として成立するためには、民衆による代表者の選出と、その代表者の行う決定が民衆にとって最善のものであるかの監視が必要である。しかし実際のところ現代の先進国の人々の政治への関心は極めて低く、主要な政党の政策の違いすら答えられないほどの酷さである。現代の我々にとって投票行為にもはや政治的知識は必要なく、求められているのは決められた日時に投票所に向かうことのみとなった。現行の政治形態には代表者の監視を民衆に行わせる仕組みの一切が欠如しているのである。監視の必要性の欠如は政治的権威が民衆の意識から離れることを意味し、投票率の低下が必然的にもたらされる。結果として我々先進国は“選挙による貴族政”を採用しているのだ。先に述べたように貴族政の問題点は民衆の利害、問題意識と代表者のそれとの乖離であり、思うにグローバリズムが抱える問題はその亀裂の奥底から湧いて出ている。彼ら貴族の画一化された問題意識に従えばこれらの事柄は問題ではないのである。したがって議会制民主主義をすべての国家において成立させることがグローバリズムの問題を解消する最も根本的な策であると考える。




議会制民主主義を成立させるために最重要とされることは民衆に政治家の決定を監視する熱意を起こさせる刺激である。つまりは民衆に政治参加の機会を与えることである。現行の政治形態において一般に民衆に許された政治参加の場は四~五年に一度の選挙期間のみであるが、その一瞬だけのためにすべての民衆に政治の動向を追い続けるように求めるのが過度な期待なのは明らかなのだ。むしろ選挙制度自体その堕落を生み出しているのではないだろうか。選ぶ側と選ばれる側の違いが両者の意識内に民主政にあるまじき、政治的判断能力の優劣の存在を芽生えさせているのではないか。




現代人はあまりにも多忙であり、そのわずかな期間すらも投げ捨ててしまう傾向から推し量るに、自分の意思が政治に反映されたかわかるほどの参加様式でない限りは恐らく彼らの政治への失望と無気力を払拭できないだろう。選挙制度に変わるものとして例えば代表者を選挙によって決定するのではなく、抽選によって民衆の中から無作為に選出してはどうだろうか。民主政はすべての人において政治的判断能力に優劣はないことを前提に初めて導き出されるのであるから、そもそも政治家に適した素質なども存在しない。したがって政治家になるのは民衆であれば誰であっても良いのでなければならないことになる。したがって選挙による代表者の選出よりも、抽選による代表者の選出の方がより民主的な方法となるのである。すべての民衆に活動的な政治の場を与えることで一般的に民衆の政治への関心はより高まると言える。グローバリズムが抱える問題がいつまでも好転を見ないことが“選挙による貴族政”に起因するものであると仮定すれば、政治的権威を民衆の下に授けることによりこれらの問題解決への突破口が開けるのではないだろうか。



参考文献 D・ミラー(2005)『1冊でわかる 政治哲学』(岩波書店)




日常会話で“哲学的な話だね”というと、含蓄がありそうだとか深イイ話だとか、あるいは深さ、難解さから転じて意味不明な話、もっと悪い場合には知性を鼻に掛けた反吐が出そうな話だという意味が含まれているように思う。


でも、そもそも“的”と付けられているところの“哲学”がどういうものかを我々は理解できているだろうか?恐らく端的な説明は存在しない。そこで、少なくとも僕が所属する哲学科で普段どんなことを考えているかを整理することで、その説明のモデルを提案したい。


率直に回答からいえば、“哲学”とは観察行為の観察だと言えるだろう。

科学は対象を観察することで作りあげられていく。自然科学では対象は自然の在り方であり、社会科学では社会の在り方であり、人文科学では人の在り方だ。それに属する物理学、政治学、言語学などは、それぞれ一般にモノの働き、政治の動き、人間の言語的営みを広く観察していると言えるだろう。哲学科で学んでいるのはそれらを観察することなのだ。

例えば、物理学の場合、モノの働きを観察し原因と結果に当てはめて語っている。従って、この場合の観察行為には因果律が前提とされていることが分かる。観察行為の観察とは、観察行為の構造を明らかにすることなのだ。


では、モノの働きに因果律が成り立つことをどのように証明するか、哲学はこのような視点から始まると思う。因果律は観察行為の枠組みとなっているため、観察行為からは直接発見することはできない。したがって哲学では決して観察し得ないことを考えていることになる。しかし、観察できない、すなわち目に見える結果がないからと言って、無視することはできない。観察行為から成り立つ科学は、同時に観察不可能な要素からも成り立っており、「目に見えないからよくわからないものだけど、とりあえず因果律が存在することを信仰していれば物理学も正しいからいいじゃないか」という見方が恐らく科学的な態度とは言えないのが、誰の目にも明らかだろうからだ。


他に例を挙げれば政治学の場合、その前提となるものは善悪の基準と言えるだろう。ある政策が施行される場合、その政策がもたらす影響を観察するというよりは、その政策が施行されなければならない根拠、すなわち何を悪い、避けるべき問題とみなし、何を善い、目指すべき目標としているのかを考えるのである。これも先の例と同様に社会の観察をすることで、直接答えとして見えてくるものではない。善悪の基準は個人の信念に依存すると考えられるからであり、それは千差万別であるとされるからである。しかし、一般に我々は“俺的な考え”と政策を区別したいと望むだろう。したがって、社会で共通の善悪の基準を欲するのである。このような善悪の基準についての哲学を倫理学と呼んでいる。


言語学においては、人は別の人とコミュニケーションをとれるということが前提となるかもしれない。その前提となる信念が正しくない限り、人は他者との繋がりを持つことはできないこととなる。したがって言語は意味がないものとなるのだ。しかしある言葉に対して複数の人の間で全く同じ意味がイメージされていると観察によって証明することはできないだろう。したがって解決しなければならない問題として哲学で扱われる。



ある種このように見ていけば哲学は科学の最も根本的な根拠付けのために行われており、かつ科学の指針となっていることが分かる。その点でやはり我々は冒頭の“哲学的な話”と“哲学の話”を区別しなければならないのではないだろうか。明らかに哲学は一般に歪曲された印象を持たれているのだ。