逃げて私! 今すぐ日本へ逃げるのよ! 〜番外編: ローマのホテル | the wrecked ship diary

逃げて私! 今すぐ日本へ逃げるのよ! 〜番外編: ローマのホテル

2001年4月。
13年後の4月と同じように、私は『日々のリセット』を願ってニューヨークへ旅立った。このときは3ヶ月の滞在となった。
7月に一時帰国し、10月に再渡米する予定であったが、ご存知の通り9.11が発生した。両親の反対もあって、私はリセットも半ば日本に残った。

『残った』——まさに心残りだった。

ニューヨークで親しくなった友人のなかに、中東系仏人のモハメド君がいた。
彼は熱心なムスリムで、生真面目だが愉快なひとだった。諸事情あって皆が私を『ビッチ』呼ばわりするなか、礼儀正しく接してくれたのは、彼と韓国の人々だけであった。
モハメド君は戒律に背くまいと、煙草の代わりに常にストローをくわえていた。予備のストローをワイシャツの胸ポケットにストックしていたほどだ。

9.11のあと、愛国法が施行されてから一度だけ「警察に目をつけられている。僕はなにも悪いことをしていないのに」と、国際電話があった。
「逃げて、モハメド! 今すぐフランスへ逃げるのよ!」

没交渉になったいまでも、彼のことは頻繁に思い出す。
今日もストローをくわえているのだろうか。

* * * * *


と、いうわけで、ローマのマムーンが喫煙しているのを見て、少しだけ驚いた。戒律の解釈もひとそれぞれなのだろう。
彼は夜間責任者で、昼はアフロ君がホテルを執り仕切っている。
アフロ君の本名は知らない。
一見すると爆発ヘアのB系男子だが、おそらく彼も中東系だったと思う。
気怠そうに、いつでも誰かと電話をしている。フロントでゴキゲンな音楽を鳴らしていて、その音量は客室の私の耳にも入るほどだ。
だが、彼はイヤなヤツではないし、仕事のできるヤツだ。

ドタンと
一度、シャワーのガラス扉がドタンと倒れてきた。
このときはマムーンが助けてくれた。
めちゃめちゃビビった。



これまでの記述でも判るように、ローマで滞在したホテルは、良い意味でも悪い意味でも『学生寮』のようだった。

台
机がないのでシミだらけの台にいろいろ乗せていた。



それでも、ホテルはホテル。
毎日、客室に清掃が入る。
これは私にとって意外なことであったので、初日は枕にチップを置くのを忘れてしまった。
清掃員を見て、挨拶を交わし、建物の廊下に出たところで、これはマズイと思った。疑心暗鬼になっていたので『チップを渡さなければ、荷物を荒らされるかもしれない』と、考えたのだ。

客室に残したトランクは、重くて太い鎖でタオル掛けに繋いであった。
TASロックの他に南京錠もつけていた。これを開いてまで窃盗を働くのは、割に合わないこと。事前に日本でつけられた知恵である。
だが、もしかしたら『歯ブラシを便器に浸す』等の陰湿な悪戯があるやも知れん(いま思うと恐ろしいほどの疑心暗鬼で、ホテルの連中に申し訳ない)。

踵を返し、ホテルの扉を乱暴に開き、私は清掃員をとっつかまえた。小銭入れのコインは2€玉のみ。それを掴ませて「ごめんなさい、チップを忘れていたわ」と、作り笑いをすると、清掃員は驚かされたようだった。
短く刈り込まれた髪に、洒落っ気のない服。
実直そうに見受けられたので、ひとまず胸を撫でおろす。

観光を終えて夕暮れ時にホテルへ戻ると、室内は整頓されていた。
あくまで『整頓』である。枕にミントチョコが置かれているわけでもない。
床に落ちた毛髪はそのままだし、タオルもシーツも他人の汗が臭うまま。冷蔵庫もないので、補充などもナシ。

ただ、ゴミ袋はスッキリと片付けられている。度々コンビニ袋を入手せずとも済むように、中身だけを抜いてくれていた(イタリアではコンビニ袋が有料である)。

棚
左端、洗濯バサミで吊るされている袋がゴミ用。
よく『ゴミだ』って気づいたよね……。


だが——不思議なことが一点。
決して悟られぬように、飛行機から盗んだ『鬼太郎袋』に入れたガールズ☆ダスト。これだけは始末してくれなかった。不浄のものであるから、か。
……つまりは、なかを改めてから処理しているのだな……

それからは、ゴミを通じて無言の会話がなされているようだった。
化粧品サンプルの空き瓶から、ブランドが知られぬようにする。所詮はサンプル、富裕層と思われては困る。
靴の空き箱はペタンコに潰す。立派な靴箱も厄介なものだ。
豚肉の残骸には触れたくなかろうから、サルシッチャや生ハムの空き袋は厳重に梱包する。
かなりの気遣いをした。

その甲斐あってか?清掃員は私に親しみを覚え始めたようだ。

イタリアでの最後の夜。
2週間ぶりにローマへ戻った私に
「今夜はダブルベッドの部屋を用意した。私とあなた、あなたと私のために……!!」
と——ぬらぬら黒い眼球を真っ直ぐに向けてきたのだ……!!
「冗談でしょ、面白いひとね」と、躱すも「面白いことはナニも言っていない」と、更に眼力を強くする。
有無も言わさず、彼は私のスーツケースを誰もいない『離れ』に運んだ。
薄暗く、巨大なダブルベッドのみが鎮座する、殺風景な部屋。
窓は、開こうにも開けない構造である。
清掃員は
「ほら、あなたの部屋の向かいは私の部屋だ」
と……細い廊下を挟んだ先、禍々しく紅に塗られた扉を指差す。

ヒイィィィィーーーッ!!!!!

Oh, NO!!!! ピーンチッ!!!!!
そういうことに関する戒律ってないのかッ!!?

そこへ、気怠そうにアフロ君が出勤してきた。この離れは、従業員の控え室なのだ!
タスケテアフロクン!!!

どうやら、アフロ君と清掃員には上下関係があるようだった。
「ハヨザァッス! アフロ先輩!」
と、いうように、清掃員が襟を正す。
アフロ君は「あら久しぶり」的な軽い挨拶を私に投げて、とっとと母屋に消えていった。清掃員もチョロチョロと後をついていった。

まじリスペクトっス! アフロ先輩!!キラキラ

この夜。
私は
「そうか……だから宮本武蔵は風呂に入れなかったのか」
と、得心したのであった。とはいえ、斬ろうにも私に刀はない。
『ウォーキング・デッド』のことも思い出されて、扉の前に空き缶を吊るそうと考えてみたり。
一睡もできぬままに、翌朝を迎えたのであった……。


部屋
いま思えば、アッチの部屋は居心地がよかった。


今回は番外編をお届けしました。
次回こそ『金返せ!~ローマパスの悲劇』をお送りします。