ここ数年探していた
「私らしさ」について、
ひとつ大きなことが分かった。
…私は「純粋な変態」である。
そして「真っ当に狂ってる」。
就活時代の私の記憶。
《王道を歩いているつもりが
そこはけもの道だった》と
みうらじゅんが言った時、
私は自分の視野から飛び出し
「正しさ」を他人が決めた時の
自分の歪さを感じた。
「それでいい、そこがいい。」
肯定的に「個性」と名付ければ
価値観はぐっと上がったはずだ。
けれど、それでは済まず
歪な自分が嫌になった。
「人と違う私」が欲しいというのは
すこし言葉足らずだった。
「人と違う良い私」が
欲しかったというのが
そのときの私の本音だ。
そして、今。
「良い・悪い」もとい
「心地良い・心地悪い」は
すべて私がジャッジしていい、
という世界を教わった。
軸を私に戻したら
歪さは当たり前だが消える。
そして、世間に合わせて
歪めていた心が整ったとき、
冷や冷やするような
本音が四方八方から漏れてくる。
私の内側から沸く日もあれば
出会った他人の口や
本や歌や母や過去の記憶を借りて
私の本音が集まってくる。
この事態を恐れていたのだ。
だから歪める必要があった。
蓋をして、故に何より注目して。
私の欲しかった、
ほんとに欲しかった世界は、
私の価値観に従って
類いもなく美しいものだ。
そして、同時に他人にとって
極めて理解しづらい
可能性もある。当たり前だが。
私が私を純粋に表現すれば
そのぶん道は開けるだろう。
私にとっては唯一無二の
王道がそれなのだが、
他人にとっては極めて異端な
けもの道かも知れない。
誰かに気づかれるのが
ずっと、怖かったのだ。
何故なら、最近までずっと
ジャッジを他人に委ねていたから。
けれど、同時に
わたし自身にばれた本音は
もう拡がる一方だし
わたしが降参するのも
時間の問題だと思う。
ジャッジを我が手に帰還させて
すべてに「可」の印を押す作業。
今は、そんなことをしている。
どんどん、進む。
そういえば、先に誰も
歩いていない事に気づく。
進むべき道はまだなく
それでも前に行きたいなら
これから創るしかないという。
どんどん私の濃度が
濃くなってゆくほどに
私の譲れない美意識が
増え続けている状況。
純粋に私を解放し続ければ
他人にとっては
極めて歪な変態になる。
それでいい。
嘘偽りなく真っ当に
わたしが本音を選び続ければ
他人は私が徐々に
狂ってきたと思うかも知れない。
そこがいい。
私が私の歪さから逃げて
けれど捨てきれずにいたこと
そのすべてを愛おしく思うし
仮に他人にとって、
変態すぎるこだわりだとしても
私はそれを「良い」ものと
ジャッジするから問題ない。
ある程度は、この今の世界で
変態で狂ってると称されること
すべてを仕方なく受け入れよう。
だが、同時に私は私の本音を
純粋で真っ当なものだと
信じて敬意を示していよう。
私は何の才能もなく
秀でたものを持たないけれど
純粋な変態にはなれる。
同じように何の才能もなさそうで
秀でたものを持たなそうな
変態になることを辞めた大衆より
アインシュタインやピカソや
ウォルトディズニーのような
才能を燃やし尽くした変態たちの
言葉を強く親しく思う。
その事実に降参しないと
もうどうにも進めなくなった。