思い出してみると、猫目館に妙子さんが現れたのは、2009年7月のことでした。
 彼女はその5年前、長年の苦労がたたり、亡くなりました。しかしまあ、あの世でもこの世と同様、価値観の多様化が進んでいるようで、この世に残りたいという死者が増えてきたのです。
 これまでは、あの世とこの世の境界をはっきりさせることで、秩序を乱さないようにしていたのですが、「死んだら絶対あの世に来なければならない」というルールを強制させることもままならないほどの状況になってしまったのです。その結果、そのあたりの偉い人は条件付でこの世に死者がとどまることを認めることにしたのです。その条件とは・・・。

 自身の位牌を持つ者の傍に五年間滞在し、その者に自身の存在を感じさせないこと。

 声を発してはいけないだけでなく、物音を立ててもいけません。毎日五年間、位牌を持つ人の傍でこの条件の下で過ごさなければならないのです。
 そして、妙子さんは五年間、位牌を持つ息子の新一くんの傍で条件に基づいて生活し、ついにこの世にとどまる権利を得たのです。
 この権利を得ると、本人の前で姿を現すことができるようになります。一方で、姿を現したくない人には現さなくてもいいのです。でも、そうなるとこの権利を、悪業を働くために得ようとする輩が出てくるのではないかと思われますが、その辺は大丈夫です。読心術ができる審査員が、現世に残る動機を死者たちから読み取るので、現世で死者が悪業を働くことはほぼ防ぐことができます。まあ、条件を達成するための試験期間で急に気が変わって・・・ということもあるので、完全に防ぐことはできませんが・・・。
 では、妙子さんはなぜ、この地獄のような(意外とつらいんですよ。いろいろと・・・)五年間の試験期間を耐えてきたのかというと、目的はただ一つ、息子の新一くんとの生活を送るためです。いろいろあって、本来の親子として当然の生活を送ることができなかったのです。その辺の事情を振り返ると、話が重くなってしまうので触れません。ただ、この時点では、新一くんが小学生から中学生の頃にかけての間、親子にとって地獄の日々だったということだけ押さえておいていただければと思います。

 そうして、現世に復活した妙子さんは、自分が最もお気に入りだったという27歳当時の姿で、新一くんの前に姿を現したのです。新一くんも、最初は自身の母親だとは気付きませんでしたが、見ているうちにようやく、目の前にいる女性が母親の若い頃の姿だとわかったのです。

 さて、そんな妙子さんですが、現世に戻ってからというもの、新一くんとの親子の生活を満喫していました。「いました」としたのにはわけがあります。今回のお話は、2010年3月の出来事です。妙子さんと新一くんの生活が始まってから半年ちょっと、さすがに最近は、再会当初に比べて刺激が減ってきているので、物足りなく思っているのです。
 ということで、あらすじはこれくらいにしておきます。

 2010年3月の初め、事件が起こりました。
「どうしたの?」
声を掛けたのは来夢ちゃんです。五号室に住む五島新一くんの妹です。
「あ、来夢ちゃん。・・・来夢ちゃんこそ、どうしたの?」
来夢ちゃんの問いかけに答えずに、逆に訊き返したのは猫目館管理人の来生菜奈さんです。
 アパートの管理人というと、だいぶお年を召した方という印象が強いと思われがちですが、彼女はこの年(2010年)で24歳になるという若さです。それはさておき。
 管理人さんが訊き返したのも無理ありません。別に管理人さんは、悲鳴を上げたり、何か大きな物音を立てたわけではないからです。
「お姉ちゃんの様子がおかしいから、ちょっと見てきてって、お母さんが・・・」
「・・・ずいぶんと、耳がいいのね、お母様って」
「だって、幽霊だもん」
「・・・」
それを言われてしまうと、管理人さんでなくても言葉を失います。
「んで、何があったの?」
来夢ちゃんは再度、笑顔で訊ねました。
「実はね、お湯を沸かそうと思ったんだけど、お釜に火がつかないのよ」
「オカマ?」
「そう・・・って、来夢ちゃん、あなた今、変な想像したでしょ?」
「!」
気まずそうな来夢ちゃんの表情を見て、管理人さんは苦笑しました。
「やっぱりね。違うのよ。風呂釜のことよ」
 管理人さんの話によると、ここ最近、風呂釜の調子が悪く、なかなか火がつかない状況が続いていたそうです。そして今日、ついに火がつかなくなったのです。
 実はこの猫目館、お風呂にはだいぶお金が掛かっています。6畳ほどの広さの浴室に、シャワーとカランの設備が四つ、湯船だけで3畳ほどの広さがあります。複数の住人が入浴することを想定して、これだけ広い浴室に設計されたのです。しかし、それで予算がかさみすぎてでしまい、風呂釜は点火装置付の手動タイプで低コストに抑えているのです。ところが、今回はその風呂釜で、ガス栓を開いて点火レバーをいくら回しても火がつかないのです。
「ふう、仕方ない。今日はお風呂に入れないわね。住人の皆さんには近くの銭湯に行ってきてもらおう・・・」
 こうして、その日は住人全員、猫目館のお風呂に入ることができませんでした。銭湯で体を洗う人、面倒臭いということでお風呂に入らなかった人、概ね半々といったところです。

 次の日、ガス業者がやってきました。管理人さん立会いのもと、風呂釜を調べた業者は、管理人さんと向き合いました。
「これはもう直りませんねえ」
管理人さんは目を丸くしました。そして、ちょっとムキになって言いました。
「え?どうしてですか?まだ3年ちょっとしか使ってないのに・・・」
そうなのです。猫目館が完成して住人たちが生活を始めてから、まだ4年と1ヶ月ほどしか経っていないのです(管理人さんは多少認識を誤っているようです)。ですが、風呂釜が壊れてしまいました。その性能上、なかなか壊れないはずにもかかわらず、一体どうして・・・。
「多分、使いすぎだと思いますよ」
業者は言いました。その説明に、管理人さんは納得することができません。
「どうしてですか?お風呂って、毎日入るもののはずですよ」
「確かにそうですがね。ただね、管理人さん、風呂釜にもね、限界はあるんですよ」
「どういうことですか?」
「いいですか?この風呂釜はね、一般家庭向きのものでね、こういった共同浴場で使うこと自体、スペックをオーバーしてるんですよ」
業者の説明を、管理人さんは頭で整理し始めます。
「・・・つまり、今までこの風呂釜は、無理してたってことですか?」
「まあ、そういうことですね」
業者は、説明を終えたことで一息つきました。すると、
「でも、それじゃおかしいですね」
と、管理人さんは口を開きました。
「・・・どういうことです?」
「だって、いくら共同浴室って言っても、基本的には一人ずつ利用しているわけですから、それほど負担が掛からないはずなんですが・・・」
管理人さんの発言に、業者が顔をしかめました。
「管理人さん、あなた、冗談を言ってるのですか?」
「え?」
「あのね、いくら一人ずつしか浴室に入っていないって言っても、この湯船の大きさだけでスペックオーバーしてるんです!すぐにお湯の温度が下がり、頻繁に追い焚きしてるはずです。つまり、想定以上の利用が、無意識のうちに行なわれてるわけで、結果、通常の範囲での使用以上に老朽化っていうか、損傷っていうか、とにかく、寿命が短くなったんです!」
「・・・そうですか」
管理人さんは、ついに業者の説明に屈服しました。そして、新しい風呂釜を買うことに決めました。

(次回に続く)