その日、美佐子の家は大きな騒ぎとなっていた。一人娘である美佐子が忽然と姿を消したからである。
 しかし、両親は警察に届け出なかった。美佐子の部屋に書置きがあったからである。そこに、駆け落ちする旨が書かれていたのである。
「・・・あのバカ娘め!」
父親は書置きを握りつぶし、険しい表情を浮かべる。母親は床に崩れるように座り込み、むせび泣いている。
「泣くな!あんな奴は私たちの娘ではない。まったく、あんな自分勝手に育っていたとは・・・」
父親の怒りの矛先は、勘当した娘からそばで泣く母親に向けられた。
 結局、父親はその日一日中大いに荒れ、母親は終日泣きぬいた。

 そんな事とは知らない美佐子は、和雄とともに東へ向かう電車に乗っていた。

 窓の外の景色を眺めながら、美佐子は生まれ故郷に別れを告げ、高校の卒業式の時に校長が読んだ送辞の通り、新たな人生の一歩を踏み出した。

 朝日が水平線から光の矢を放ち…という詞のある歌が発表される2年ほど前の春のことであった。美佐子と和雄はまさにその言葉の通り、光の矢に包まれていた。新たな一歩を二人で踏み出したことを祝福するかのように、二人の姿は明るく輝いていた。
 そう。このときは二人を包んでいる朝日の光のように、二人は輝かしい未来が続いていると信じて疑わなかった。二人だけでこれから生活していくわけで、それに一抹の不安がなかったと言えばうそになる。それでも、どうにかやっていけるだろうと、二人は軽く考えていた。

 そしてやってきたのは、美佐子の実家から電車で3時間ほど東に行った小都市であった。所持金を考慮して限界まで遠くにやってきた。
 まず、部屋探しとなるわけだが、実は和雄は何も考えずにここにやってきたわけではなかった。かつてこの都市で仕事をしていたことがあり、その時の知り合いに部屋を見つけてもらっていたのである。そのため、労なく生活の拠点を確保することができた。
「今日からはここで暮すんだ」
和雄が部屋の扉をあけると、そこには六畳一間の質素な空間が広がっていた。しかし、美佐子はそこが素敵なものに感じられた。
「さ、入ろう」
和雄に促されて、美佐子は部屋に足を踏み入れる。長い間開けられていなかったのか、空気が淀んでいる。入った瞬間、美佐子は険しい表情を浮かべた。しかし、それを我慢して部屋の中に入ってみると、家具が何もない六畳の部屋は思ったよりも広く感じられ、美佐子は心が高ぶるのを感じた。
「ここが、私たちの…」
そうつぶやく美佐子を、和雄は恐る恐る見てみる。築40年、六畳一間のアパートの一室ということで、美佐子の心証を悪くしてしまったのではないかと不安になったからである。しかし、美佐子の反応は和雄のそれとは対照的で、目を輝かせて、うれしそうであった。ほっとした和雄は床に荷物を置くと、
「美佐子」
と呼びかけた。呼ばれた美佐子は和雄に体を向ける。
「これから一緒に暮らしていくんだけど、その・・・・・・、よろしくな」
和雄の突然のあいさつに美佐子はきょとんとしていたが、しばしの沈黙の後、美佐子はクスッと笑い、
「こちらこそ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
と返した。

 新たな部屋で、ある程度の片づけを終えると、窓の外はすっかり暗くなっていた。ここに来る途中で買っておいた弁当で夕食を済ませると、最低限の着替えくらいしか持ってきていなかった二人は体を寄せ合った。眠ろうにも、蒲団がないからである。
「さて、明日からは仕事に出ないとな」
「え?」
美佐子は驚き、和雄に顔を向ける。
「いつの間に仕事を見つけたの?」
「ああ。さっきこの部屋を探してくれたあいつが働いている工場でな。前にそこで働いてたことがあるんだ。だから、そこの社長に昨日のうちに話しておいたんだ」
「・・・結構、手回しが早いんだね」
「まあ、知り合いだから」
 後でわかったことだが、和雄はかつて、その工場で1週間だけアルバイトをしていたことがあった。ちょうど忙しい時期だったとかで、期間限定のアルバイトを募集していたのだ。それに和雄と、和雄に部屋を紹介してくれた石田孝則が応募し、一緒に働いていたのだ。石田はそのままずっと工場にい続けていたが、和雄は工場を出て、あちこちに流れながらの生活を選んだのである。美佐子と出会った時もそんな生活をしていた時であった。日雇いの仕事に就いてはその日の生活費を稼ぎ、少し余裕が出てきたら別の町に移る。ちょっとしたフーテン暮らしをしていた。そのため、これまでいろいろなところをめぐっていて、知り合いも各地にいるのである。
「でも、俺もそろそろ、フーテンを卒業しないとな」
和雄はそういうと、美佐子を引き寄せた。
「お前をしっかりと養っていかないといけないしな」
「和雄…」
美佐子は和雄の胸に顔をうずめた。

 こうして、和雄と美佐子の同棲生活が静かに始まった。

 同棲が始まった翌日、和雄は迎えにやってきた石田孝則とともに、今日から働くという工場に行った。美佐子は昨日終わらなかった後片付けをし、それが終わると隣近所に引っ越しのあいさつをした。少ないお金で引っ越しそばを準備して、あいさつ回りをする。
「昨日引っ越してきた者です」
「ああ、どうも。ずいぶんと若いわね、新婚さん?」
「え、えっと、まあ…」
「そう。まあいいわ。よろしくね」
そんなあいまいなあいさつをしながら、時は流れた。
 そうして一日が終わった。午後6時過ぎに和雄が帰ってくる。美佐子が明るく出迎える。そして抱擁、口づけ…。さみしかったのか、美佐子は和雄に甘える。
「今日は疲れちゃった」
「ああ、あいさつ回りか。そりゃ御苦労さん」
「和雄はどうだったの?工場」
「ああ。うまくいったよ。今日からしっかりアルバイト」
「そうなんだ」
「まあ、突然だったから、社員にはなれなかったけど、バイト中の働きが認められれば正社員にしてもらえるっていうからさ。とりあえず、しっかり働いて、正社員にならなきゃな。そうすれば、今よりも生活は楽になるし……ほい、これ」
和雄は美佐子に封筒を手渡した。
「これは?」
「今日の分の給料。とりあえず、しばらくの間は毎日給料をもらって帰ることにさせてもらったんだ。お金が全くないからな」
「そうなんだ」
「来月からは月払いになるけど、それまでに少しお金をためておかないとな。家賃とか光熱費とかもあるし」
「うん。何とかやりくりしてみる」

 こうして、二人の同棲生活は本格的に動き始めたのであった。