そんな生活が1年ほど続き、この4月から、明美は結局営業課に配属されてしまった。家事もしなければならないということで、残業が少ない総務課(その中でも備品管理などの庶務)に居続けたかったのだが、本来の総務課よりも残業をさせないようにするという約束が交わされたため、営業課に回ることを承諾した。・・・とはいえ、総務課は元々、社員のあらゆる管理なども仕事に含まれているため、常に残業があるわけで、営業の仕事をそのままやらせても総務課ほど残業は多くないのであった。昔は横行していた接待も、今は経費削減をすすめているため、接待に掛かった費用が経費で下りなくなり、すべて自腹を切ることになる。そのため、この会社に関しては夜更けまでの仕事というものは基本的にない。ただ、仕事のミスなどで作業が深夜にまで及ぶということは無きにしも非ず。
とにもかくにも、明美は営業課に配属となり、本格的に外回りをするようになった。総務課時代からずっと外回りの様子を横で見ていたので、大体のことはわかっている。明美は労なく営業の仕事をこなした。
そして、それは梅雨前線が日本列島に掛かり始めた頃であった。その日も明美は外回り先である会社の会議室で自社製品のプレゼンテーションをしていた。そのプレゼンテーションは相変わらず鋭く、相手のかゆいところにしっかりと手が届いていた。明美がその会社の契約を取るのに、そう時間は掛からなかった。
プレゼンテーションが終わり、仕事とは関係のない雑談をその会社の人としていると、話題は青春時代に夢中になったものになった。
「山倉さんもやっぱり合コンとかよくしたほう?」
「いえ、私は一度も参加したことはないです」
「そうなの?何ていうか、見かけどおり、まじめなんだね」
「そんなことないです」
明美は少し照れながら否定した。
「俺なんか、大学の授業はあんまり出たことなかったよ」
「では、何をされていたのですか?」
「基本、ゲーセンに行ってたな」
男性社員はその場で踊り始めた。
「こうやって・・・さ・・・・・・、連れのやつとダンレボのハイスコア競ってたもんだよ」
「あ、知ってます。『ダンス・ダンス・レボリューション』ですよね。私も中学生のときにやったことがあります」
「あ、そっか~。何か、世代の差を感じちゃうなぁ~」
「私なんか、岡本の話を聞いたときからすでに感じてたよ」
もう一人の男性社員がため息混じりに言った。
「でもまあ、大学の授業をサボることが青春ってのは、私も同感だよ」
「・・・はあ」
明美は苦笑した。大学の授業をサボったことがない明美には青春がなかったのだろうか。
「私なんかも、大学の授業をサボっては、しょっちゅう喫茶店に行っていたよ」
「喫茶店ですか?うわ~、何か時代を感じるな~」
二人の男性社員のうちの若い方である岡本が大げさに言う。
「バカいえ。喫茶店は今もあるだろうよ」
年配の方の男性社員が苦言を呈する。そして、話すのをやめようかと思ったが、明美が片付けの手を休めて興味津々といった眼差しを向けているので、咳払いを一つ、話を続けることにした。
「その喫茶店にはね、ものすごくきれいなマスターがいてね。私以外にもマスター目当ての学生がいっぱいいて、開店時間にちょっとでも遅れるとすぐに男子大学生で席が埋まってしまうんだ。私もその中の一人でね、マスターにブレンドコーヒーを注文するときはもう、至福のときだったものだよ」
懐かしげに語る男性社員。明美は目を輝かせ、頬を赤くしながら、「わぁ」と歓声を上げた。
「私はその喫茶店でコーヒーを飲むためにアルバイトを始めたくらいでね。それだけ毎日のように、私は喫茶店に通ったものだよ。それも、コーヒーだけを頼むんじゃなくて、ホットケーキやサンドイッチとか軽食も頼むんだ。それで、少しでもマスターに私のことを印象付けようとしてね。でも、今思えば回りもみんな同じことをやっていたから、果たしてマスターが私のことを覚えているかどうか、わからなかったんだけどね」
男性社員がため息をつくと、「残念ですね」と明美が言った。
「まあ、今は覚えていないかもしれないけれど、でも、大学を卒業してから何年か経って、ふと喫茶店の近くを通りかかったので、一度立ち寄ってみたんだ」
それを聞くと、同情の表情を浮かべていた明美の顔がパッと明るくなった。
「するとね、マスター、覚えていてくれていたんだ。私のことを」
明美が歓声を上げる。いつの間にか明美と一緒になって夢中で男性社員の話を聞いている岡本も「おお」と声を上げた。
「私が店に入ってカウンター席に着くと、
『お久しぶりですね。大学を卒業して以来かしら?』
って、私に言ってくれたんだ。私は驚いてしまって、
『覚えていてくださったんですか?』
って訊いたんだ。すると、
『もちろん。常連さんの顔と名前は、しっかりと覚えていますよ。日野崎猛さん』
だって。それを聞いて私はもううれしくなっちゃってね。すっかりマスターと話し込んでしまったよ」
思い出して笑みを浮かべる日野崎を見ていると、明美と岡本も自然と笑みがこぼれる。
「そのときだったっけな、確か・・・」
ふと、日野崎の表情から笑みが消えた。
「何かあったのですか?」
明美は気になり、尋ねた。
「私はその喫茶店にはそのあと2~3回訪れてるのだけど、久しぶりに訪れたときだったと思うんだ、店に小さな女の子がいたのが」
「あ、そうなるとそのお店のマスター、ご結婚されたのですか?」
「いや。そんな話は聞いてない。まあ、私が最後にその喫茶店に行ったのはもう15年以上前だから、それからこっちで結婚したかもしれないけど、私が店で小さな女の子、確か“菜奈ちゃん”って言ったかな、その子を見かけたときにはまだ結婚してなかったと思うんだ」
「菜奈・・・ちゃん?」
明美はその名前を聞いて、ピクンと小さく反応した。
「え?でも、子どもがいたんですよね?」
明美の代わりに岡本が訊いた。
「うん。いたんだ。もちろん私も、その子がどうしてキャッツアイにいるのか訊いたんだ」
「キャッツアイ?」
明美と岡本が声を揃えた。
「ああ、私が通っていた喫茶店の名前だよ」
「へぇ~、美人怪盗三姉妹が出てきそうな名前ですね」
「ああ、そのマンガから取ったらしいよ。何でも、偶然名字が同じ“来生”だったっていうのがきっかけで、しかも喫茶店もつながってたとかで・・・」
岡本は半ば呆れていたが、明美は対照的に真剣なまなざしで聞いている。そして、明美は目で、その子どもの話をするよう促した。それに気付いたのか、はたまた偶然か、日野崎は話を続けた。
「まあ、そんなキャッツアイにどうして女の子がいたのか訊いたんだ。まず、私が学生だった頃にはその子はいなかった。けれど、その女の子を見る限り、どう考えても私が学生の頃にはすでに生まれているような大きさだった。もちろん、小さかったから店先に出さなかったという可能性もあるけれど、だとしたら育児と喫茶店の仕事なんか、いくらマスターでも両立は出来なかったはず・・・」
明美はうなずきながら聞いている。
「そしたら、
『この子は身寄りがなくなったから、私が引き取ったのよ』
ってマスターが答えたんだ。つまり、養子だね」
日野崎はあごに手を添えながら、当時の光景を思い出しているようだ。
「それでその子がまたしっかりしていてね。私の前に出てくると、
『初めまして。来生菜奈です』
って、自己紹介をしたんだ。私も慌てて自己紹介をしてね」
「あの、日野崎さん」
明美は突然、日野崎を呼びかけた。日野崎と岡本は驚き、明美の顔を見た。
「その喫茶店の場所、どこにあるのか教えていただきたいのですが・・・」
そして、明美は梅雨が明けた7月下旬に、有給を3日分使って5連休にし、喫茶店キャッツアイにやってきた。
「ここが日野崎さんが言っていた喫茶店ね」
明美は高鳴る鼓動を落ち着けようと、入口の前で深呼吸をした。
「・・・よし!」
ついに明美は、喫茶店の扉を開いた。
とにもかくにも、明美は営業課に配属となり、本格的に外回りをするようになった。総務課時代からずっと外回りの様子を横で見ていたので、大体のことはわかっている。明美は労なく営業の仕事をこなした。
そして、それは梅雨前線が日本列島に掛かり始めた頃であった。その日も明美は外回り先である会社の会議室で自社製品のプレゼンテーションをしていた。そのプレゼンテーションは相変わらず鋭く、相手のかゆいところにしっかりと手が届いていた。明美がその会社の契約を取るのに、そう時間は掛からなかった。
プレゼンテーションが終わり、仕事とは関係のない雑談をその会社の人としていると、話題は青春時代に夢中になったものになった。
「山倉さんもやっぱり合コンとかよくしたほう?」
「いえ、私は一度も参加したことはないです」
「そうなの?何ていうか、見かけどおり、まじめなんだね」
「そんなことないです」
明美は少し照れながら否定した。
「俺なんか、大学の授業はあんまり出たことなかったよ」
「では、何をされていたのですか?」
「基本、ゲーセンに行ってたな」
男性社員はその場で踊り始めた。
「こうやって・・・さ・・・・・・、連れのやつとダンレボのハイスコア競ってたもんだよ」
「あ、知ってます。『ダンス・ダンス・レボリューション』ですよね。私も中学生のときにやったことがあります」
「あ、そっか~。何か、世代の差を感じちゃうなぁ~」
「私なんか、岡本の話を聞いたときからすでに感じてたよ」
もう一人の男性社員がため息混じりに言った。
「でもまあ、大学の授業をサボることが青春ってのは、私も同感だよ」
「・・・はあ」
明美は苦笑した。大学の授業をサボったことがない明美には青春がなかったのだろうか。
「私なんかも、大学の授業をサボっては、しょっちゅう喫茶店に行っていたよ」
「喫茶店ですか?うわ~、何か時代を感じるな~」
二人の男性社員のうちの若い方である岡本が大げさに言う。
「バカいえ。喫茶店は今もあるだろうよ」
年配の方の男性社員が苦言を呈する。そして、話すのをやめようかと思ったが、明美が片付けの手を休めて興味津々といった眼差しを向けているので、咳払いを一つ、話を続けることにした。
「その喫茶店にはね、ものすごくきれいなマスターがいてね。私以外にもマスター目当ての学生がいっぱいいて、開店時間にちょっとでも遅れるとすぐに男子大学生で席が埋まってしまうんだ。私もその中の一人でね、マスターにブレンドコーヒーを注文するときはもう、至福のときだったものだよ」
懐かしげに語る男性社員。明美は目を輝かせ、頬を赤くしながら、「わぁ」と歓声を上げた。
「私はその喫茶店でコーヒーを飲むためにアルバイトを始めたくらいでね。それだけ毎日のように、私は喫茶店に通ったものだよ。それも、コーヒーだけを頼むんじゃなくて、ホットケーキやサンドイッチとか軽食も頼むんだ。それで、少しでもマスターに私のことを印象付けようとしてね。でも、今思えば回りもみんな同じことをやっていたから、果たしてマスターが私のことを覚えているかどうか、わからなかったんだけどね」
男性社員がため息をつくと、「残念ですね」と明美が言った。
「まあ、今は覚えていないかもしれないけれど、でも、大学を卒業してから何年か経って、ふと喫茶店の近くを通りかかったので、一度立ち寄ってみたんだ」
それを聞くと、同情の表情を浮かべていた明美の顔がパッと明るくなった。
「するとね、マスター、覚えていてくれていたんだ。私のことを」
明美が歓声を上げる。いつの間にか明美と一緒になって夢中で男性社員の話を聞いている岡本も「おお」と声を上げた。
「私が店に入ってカウンター席に着くと、
『お久しぶりですね。大学を卒業して以来かしら?』
って、私に言ってくれたんだ。私は驚いてしまって、
『覚えていてくださったんですか?』
って訊いたんだ。すると、
『もちろん。常連さんの顔と名前は、しっかりと覚えていますよ。日野崎猛さん』
だって。それを聞いて私はもううれしくなっちゃってね。すっかりマスターと話し込んでしまったよ」
思い出して笑みを浮かべる日野崎を見ていると、明美と岡本も自然と笑みがこぼれる。
「そのときだったっけな、確か・・・」
ふと、日野崎の表情から笑みが消えた。
「何かあったのですか?」
明美は気になり、尋ねた。
「私はその喫茶店にはそのあと2~3回訪れてるのだけど、久しぶりに訪れたときだったと思うんだ、店に小さな女の子がいたのが」
「あ、そうなるとそのお店のマスター、ご結婚されたのですか?」
「いや。そんな話は聞いてない。まあ、私が最後にその喫茶店に行ったのはもう15年以上前だから、それからこっちで結婚したかもしれないけど、私が店で小さな女の子、確か“菜奈ちゃん”って言ったかな、その子を見かけたときにはまだ結婚してなかったと思うんだ」
「菜奈・・・ちゃん?」
明美はその名前を聞いて、ピクンと小さく反応した。
「え?でも、子どもがいたんですよね?」
明美の代わりに岡本が訊いた。
「うん。いたんだ。もちろん私も、その子がどうしてキャッツアイにいるのか訊いたんだ」
「キャッツアイ?」
明美と岡本が声を揃えた。
「ああ、私が通っていた喫茶店の名前だよ」
「へぇ~、美人怪盗三姉妹が出てきそうな名前ですね」
「ああ、そのマンガから取ったらしいよ。何でも、偶然名字が同じ“来生”だったっていうのがきっかけで、しかも喫茶店もつながってたとかで・・・」
岡本は半ば呆れていたが、明美は対照的に真剣なまなざしで聞いている。そして、明美は目で、その子どもの話をするよう促した。それに気付いたのか、はたまた偶然か、日野崎は話を続けた。
「まあ、そんなキャッツアイにどうして女の子がいたのか訊いたんだ。まず、私が学生だった頃にはその子はいなかった。けれど、その女の子を見る限り、どう考えても私が学生の頃にはすでに生まれているような大きさだった。もちろん、小さかったから店先に出さなかったという可能性もあるけれど、だとしたら育児と喫茶店の仕事なんか、いくらマスターでも両立は出来なかったはず・・・」
明美はうなずきながら聞いている。
「そしたら、
『この子は身寄りがなくなったから、私が引き取ったのよ』
ってマスターが答えたんだ。つまり、養子だね」
日野崎はあごに手を添えながら、当時の光景を思い出しているようだ。
「それでその子がまたしっかりしていてね。私の前に出てくると、
『初めまして。来生菜奈です』
って、自己紹介をしたんだ。私も慌てて自己紹介をしてね」
「あの、日野崎さん」
明美は突然、日野崎を呼びかけた。日野崎と岡本は驚き、明美の顔を見た。
「その喫茶店の場所、どこにあるのか教えていただきたいのですが・・・」
そして、明美は梅雨が明けた7月下旬に、有給を3日分使って5連休にし、喫茶店キャッツアイにやってきた。
「ここが日野崎さんが言っていた喫茶店ね」
明美は高鳴る鼓動を落ち着けようと、入口の前で深呼吸をした。
「・・・よし!」
ついに明美は、喫茶店の扉を開いた。