その日、一人の女性が都心からやや離れたとある駅に降り立った。改札を抜けると夏の日差しがまぶしい。女性は日傘を取り出した。

 これから向かうところは喫茶店。個人経営で、コーヒーが美味であることはもちろん、客を楽しませるイベントやサービスが充実し、リピーターが多いことでちょっとした評判となっている。しかし、彼女はコーヒーを飲みにその喫茶店に行くわけではない。


 その女性、山倉明美が自分に妹がいたと知ったのは3年前。病に伏せっていた父親が突然告白したのだ。
「信じられないと思うかもしれんが・・・」
父親の山倉和雄はフッと息つきながら言った。
 明美は返事が出来なかった。なぜ今まで黙っていたのか。なぜ今になって告白したのか。なぜ妹とは一緒に暮らせなかったのか。そもそも、母親のことだってあまりよく覚えていないのに・・・。

 父親の話によると、母親とは彼女が学生だった頃に知り合い、その後駆け落ちしたのだという。きつい仕事をしながら安い賃金を貰いつつ、貧しいながらも生活をしてきた。それから何年かすると、母親が明美のことを身ごもったそうだ。そのとき、もう一人、明美の妹も一緒に身ごもっていたというのである。無事、明美と妹は生まれた。そして、父親は今まで以上に仕事に打ち込むようになった。しかしそれが良くなかった。家族関係が疎遠になり、両親の関係は自然消滅。離婚こそしていないが、母親は妹を連れて蒸発してしまったのだという。以来、父親と明美は一緒に助け合いながら生活を続けてきたというのが、父親の話である。
 確かに、明美は何度も母親のことを訊ねた。しかし父親は、のらりくらりとあいまいな返事をしたり、違う話題を無理やり話し出したり、あるいは聞こえない振りをしたりしていた。方法こそ違えど、一貫してその話題について父親が積極的に話すことはなかった。だが、病床にいる父親は弱気になったのか、明美に過去のことを話して聞かせたのである。

 その後、明美は山倉の実家や母方の祖父母にあたる坂下家を訪ねたり、役所などで調べたりした。祖父母の家では突然の訪問に快く歓迎されることはなかったが、明美が自分たちの孫だとわかると、冷え切った氷が暖かい空気にさらされて溶けていくように、明美に対する態度が徐々に良くなっていった。子には罪があろうと、孫には罪はないと理解するのにあまり時間は必要としなかった。かえって、明美の身の上を積極的に聞きたがっていたくらいである。
 その最中、明美は自分の母親のことについて訊ねたが、山倉側は何も知らなかった上に、自分たちの子を騙した悪女という固定観念が出来上がっているため、思いつく限りの悪口雑言を浴びせる始末であった。一方、坂下側は自分たちの子であるからか、駆け落ちしたことに対する憤りはなおもあるものの、それまではとにかくいい子であったと話していた。人の気持ちをよく推し量り、弟たちの面倒もよく見ていて、料理や買い物の手伝いも積極的にこなし、それでいて宿題もちゃんとやるという、まじめでやさしく気立てが良いと、まさに女性の鑑だと坂下側の祖父母は絶賛していた。そしてそこまで話すと、「それなのに・・・」と揃ってため息をつくのであった。
 結局、祖父母や役所などを頼っても、母親と妹が今どこにいるのかはわからなかった。

 それから2年後、明美は東京の郊外にある中小企業に就職した。おりしもその頃は世界的な不景気が日本にも波及してきた頃で、内定取り消しが問題となった頃である。
 明美は父親の伝手で就職先が決まった。元々、仕事に対する向上心はなく、それこそ「お茶くみだけしてればいい会社なら・・・」というくらいのやる気のなさであったため、就職活動もほとんどしていなかった。
 明美も好きでそういう考えを持ったわけではない。しかし、父子家庭で育ったためか、家事は何でもこなすことができ、父親も最近はそういう点で明美に依存するようになっていた。そこに明美が就職し、家のことが満足に出来なくなったらどうなるか・・・。明美はそれを考えると、就職しない方が良いのではないかと思ってしまったのである。父親もまだ40代で、収入も明美が働く必要がないくらいの額である。ましてや、明美を大学に通わせることが出来るくらいである。それに、明美がアルバイトして家事がおろそかになったときも、父親はひどく不満を漏らしていた。明美はそれを覚えており、就職など無理だろうと考えたのである。
 それを推し量った父親は、やはり明美には少しの間でも社会に出て欲しいと考え、知り合いの会社の重役に明美のことを頼んだのである。明美はそれを聞くと大いに不満を漏らしたが、父親が家事に関することは大目に見ると誓ったので、明美は就職することを了承したのである。
 こうして入社した会社では、雑務をこなしていた。お茶くみや資料のコピーなど、一昔前のOLの仕事といった感じのことをしていたが、どういうわけか、よく営業の社員と外回りを同行させられていた。明美にはその理由がわからなかったが、何でもその会社を訪れた他の会社の関係者が明美に見とれてしまっていたのだという。
 それを見た営業の社員の一人が、明美を同行させれば契約も取りやすくなるのではないかと考え、ためしに一度、明美を同行させたところ、何と明美も営業の仕事である自社の商品のプレゼンテーションを見事にこなし、あっさりと契約を取ってしまったのである。それを聞いた人事の人が明美を営業に回そうとしたが、明美がそれを拒絶したため、そのまま雑務をこなす総務課に残っているのである。それでも、営業の社員から声が掛かれば、外回りに同行するように課長から命令が下っているため、明美は営業の仕事もすることになったのである。
 明美は何となく、自分が営業の手伝いをすることで契約がとりやすくなるから同行させられているのだろうと思うようになったが、その実は、見目麗しい明美が的確な説明とともに商品を売り込むため、相手が明美と商品を気に入り、契約するのであった。つまり、人目を引く美人である明美そのものが重要なのである。にもかかわらず、明美にはその自覚がないのであった。