高校に進学した当初の五島は、いわゆる「がり勉」という言葉をそのまま体現したような生徒であった。中学のときみたいにリーゼントを少し崩したような髪形ではなく、真ん中から少しだけ右側のところで分けられた髪は自然な形で下げられている。顔つきこそ中学時代と同じで初見では怖い感じではあるが、勉強ばかりしているため、教師の中には「それだけ真面目に取り組んでいるのだろう」と思っている者もいたという。そして、中学のときは周りの生徒と全く口を聞かなかったのだが、高校に進んでからは必要なことくらいは話をするようになった。宿題の範囲を訊ねたり、教師から言伝を頼まれたり、勉強に関する質問に答えたりといった場面に限られていたが、それでも喧嘩以外で口を聞くのは、高校に入ってからのことであったので、そういう点では少しは成長したのかもしれない。
それが、白石先生との共同生活が始まってしばらくすると、目標を達成するために勉強一本やりであった五島の表情が、少しずつ和らいでいった。そして、気がつくと必要なこと以外口を聞いていなかった五島が、冗談話をするようになっていたのである。五島自身は、あまり人と話をすると、先生との同居をうっかり漏らしそうになるので、それを避けたいとは思っているのだが、どういうわけか、こうしてクラスメートと冗談を言い合っているのは楽しくて仕方がないのである。テレビがないので、流行のバラエティ番組やドラマの話はできないが、その手の話を聞くのも楽しい。
そして、五島はこのとき初めて、マンガを読んだのである。クラスメートが暇な時間に読もうと持ってきた『るろうに剣心』を貸してもらったのである。授業中には読まなかったが、休み時間に少しずつ読み進めた。結局、絵までじっくり見ていたために、その日のうちには読み終わらずに、五島はそのマンガを1日だけ借りた。
家に帰ってから宿題を一通り済ませて、五島はマンガを読み始めた。当然、それに白石先生は気付いた。
「何読んでるの?」
「・・・マンガ」
「本当?」
先生は驚いた。五島はマンガを知らなかったはずなので、もしこうしてマンガを読むとしたら、それはクラスメートと話をしたということになる。それも、友人同士がする冗談を交えるような会話である。先生は五島のこの変化に気付いたのである。
それと同時に、先生はうれしくなった。五島が中学を卒業したとき、先生が気がかりだったのは、まさにそれだったのである。つまり、人間不信から来る塞ぎである。誰も信じることができないとして、人とのかかわりを極端に避けようとするのである。これは、今後五島が生きていく上で、早いうちに解決しなければならない問題であった。それが解決できないと、社会生活を送ることもままならないからである。それがどういうことであるのかは、ここで改めて記す必要もないであろう。いずれにせよ、先生が五島に対して最も懸念していた問題が、解決したのである。
「ねえ、そのマンガ、後で私にも読ませて」
「・・・いいよ」
五島は、そうねだる先生に一瞥もせずに、マンガを読みながら応えた。
次の日、五島はマンガを貸してくれたクラスメートに、
「昨日借りたマンガだけどさ、あれの続きを3冊ばかり、貸してくれないかな」
と頼んでいた。
「そんなに面白かった?」
クラスメートは訊ねる。
「ああ。・・・ってか、俺よりも、姉貴がはまっちゃってさ。『続きを早く読ませろ』ってせがむからさ」
「そうなんか。そんじゃ3冊といわずに10冊くらい持ってくるか?」
「重いだろうよ」
「いや、お前んちに直接持ってくから」
「・・・・・・・・・ん?」
五島は我が耳が信じられないとばかりに聞き返した。
「だから、今日一回家に帰った後、お前の家にマンガを持ってくって言ってんだよ」
「・・・いや、いいよ。来なくて」
「いや、行く!」
どうやら、そのクラスメートは別の目当てがあって、五島の家に行こうとしているらしい。もっとも、その理由は何となく想像できるが・・・。
結局、五島が拒絶するのも聞かずに、そのクラスメートである青井雄太は五島の家までやってきた。大きなスポーツバッグを抱えて。その中には『るろうに剣心』が全巻揃っていた。
「まあ、そのためにわざわざここに?」
出迎えた白石先生は手で口を押さえて驚いていた。
「はい。お姉さまのために、喜んで持ってきました」
白石先生は「お姉さま?」と疑問に思ったが、何となく五島が口を滑らせたのだろうと思い、そのまま五島の「お姉さま」として過ごすことに決めた。
結局、先生が五島の「お姉さま」ではなかったことは、すぐに青井にばれてしまった。理由は簡単で、五島がいつものくせで「先生」と呼んでしまったからである。それに気付いた青井が追及したため、五島は真相を話すことになったのである。
「・・・つーか、こんなのギャルゲーでもありえねえよ」
「・・・なに、ギャルゲーって、これに似たようなシチュエーションが多いわけ?」
「いや、知らねえけど」
青井はそう言うとニカッと笑った。五島もフッと笑みを浮かべる。
「ま、こんなこといろんな人間に知られると厄介だからな。俺の口からは広めないようにするわ」
その言葉に反応したのは先生であった。
「青井くん、ありがとね。本当にありがとう」
先生は青井の手を握り締めて何度も感謝した。
青井が帰るとき、五島は訝りながら、
「んで、本当はどうして黙ってようと思ったんだ?」
と訊いた。青井は、半ば五島の予想通りの答えを口にした。
「だって、こんなきれいな人、ほかのクラスのやつに知られると、絶対狙うだろ。敵は少ないに限るからな!」
青井は冗談を言うような口ぶりであったが、その目は真剣であった。どうやら、本気で先生のことを狙うつもりらしい。
「ま、無駄な努力をせいぜいするこったな」
「いつまでもそうやってあぐらかいてられると思うなよ」
そう言い合うと、二人はニッと笑みを浮かべて、玄関で別れた。
「それにしても、私、安心したわ」
青井が家にやってきたその日の晩、先生は布団の中でマンガを読みながらつぶやいた。
「何が?」
五島も一緒になってマンガを読んでいる。
「五島くんにこうしてお友達ができたから」
「・・・・・・」
五島は何も言わなかった。マンガに夢中だからというわけではなく、何も言葉が思いつかなかったからである。
「・・・これで、私の役割も終わったわね」
「・・・・・・」
五島はやはり何も言わなかった。今度は、いろいろな言葉が思いつき、そこからどの言葉を選ぶべきかに悩んだからである。
先生のその一言は、五島にとってはまるで永遠の別れを感じさせるようなものであった。それを五島の耳が受け取った瞬間、様々な思いが頭の中に現れた。
まだ別れたくない。これからも一緒に暮らしたい。まだ役割はある。元先生と元教え子の関係のまま終わりたくない。もっと親密になりたい。会えなくなるのは嫌だ。
これらは全て本音のような気もするし、一方でどこか嘘のようにも感じられた。どうしてこんな矛盾した感情を抱いてしまうのだろう。五島にはわからなかった。そして、自分にとって先生とはどういう人なのかというのを改めて考える。自分の元担任であって今は一緒に暮らす若い女性である。にもかかわらず、恋人ではない。先生はあくまで、五島のことを「今も気がかりな教え子」と見ているだろう。しかし、先生が言うには「もう役割は終わった」とのことだから、五島に対する気がかりは解消したことになる。そうなると、先生にとっての五島はただの元教え子か一緒に暮らす年下の若い男の子のいずれかになるはずである。先生にとって、そこには相手を愛しく思う感情はあるのだろうか。そして、五島の場合はどうなのか。
結局五島は眠りに落ちるまで、答えを導き出すことはできなかった。
それからの五島は、学校での生活態度は明るいものとなり、五島に話しかけてくるクラスメートも増えてきた。気がつくと、女子からも声を掛けられるようになり、五島の性格も本来の明るいものに少しずつなってきた。
元々五島は、そこにいるだけでその場の雰囲気が明るくなるような子どもであった。両親が生きていた頃は、その明るさと人見知りせずにどんな人に対してもニコニコと話しかけてくる姿がかわいらしかったためか、近所の人からも大変かわいがられていた。そこに影が入り込んだのは、五島の父親が過労で亡くなった頃からである。そのときも、悲しみに暮れる母親を慰めようと、子どもであった五島は努めて明るく振舞おうとしていた。それが、母親を立ち直らせるきっかけにもなった。そんな五島のために、母親は再婚を決意したのであった。それからの急転直下と地獄のような日々は言うまでもない。その日々が、五島を人間不信に陥れ、あるきっかけで凶暴になる人格にさせたのである。
その後、母子家庭となった後に出会った白石先生とのふれあい、そして母亡き後の先生との共同生活は、五島の冷たく固まった心を氷解させた。身近にいる人に対して心を開くようになり、自ら人に話しかけるようにもなった。
「!」
あるとき、五島はハッと気がついた。五島が白石先生に対して思い続けている感情がなんであるのかがわかったのである。確かに、尊敬の念もあれば愛情のようなものもある。しかし、何よりも先生に対して抱いている感情というのは、「感謝」だったのである。そしてそれは、あの日に言おうとして今まで言えずにいた言葉でもあった。先生の突飛な言動ですっかり影を潜めてしまったあの言葉である。
(家に帰ったら、まず先生に「ありがとう」と言おう)
五島は帰りの電車の中でそう誓った。
しかし、五島のその誓いは、実現することはなかった。
家に帰ってきた五島がまず目にしたのは、居間で倒れこんでいる白石先生の姿だったのである。
それが、白石先生との共同生活が始まってしばらくすると、目標を達成するために勉強一本やりであった五島の表情が、少しずつ和らいでいった。そして、気がつくと必要なこと以外口を聞いていなかった五島が、冗談話をするようになっていたのである。五島自身は、あまり人と話をすると、先生との同居をうっかり漏らしそうになるので、それを避けたいとは思っているのだが、どういうわけか、こうしてクラスメートと冗談を言い合っているのは楽しくて仕方がないのである。テレビがないので、流行のバラエティ番組やドラマの話はできないが、その手の話を聞くのも楽しい。
そして、五島はこのとき初めて、マンガを読んだのである。クラスメートが暇な時間に読もうと持ってきた『るろうに剣心』を貸してもらったのである。授業中には読まなかったが、休み時間に少しずつ読み進めた。結局、絵までじっくり見ていたために、その日のうちには読み終わらずに、五島はそのマンガを1日だけ借りた。
家に帰ってから宿題を一通り済ませて、五島はマンガを読み始めた。当然、それに白石先生は気付いた。
「何読んでるの?」
「・・・マンガ」
「本当?」
先生は驚いた。五島はマンガを知らなかったはずなので、もしこうしてマンガを読むとしたら、それはクラスメートと話をしたということになる。それも、友人同士がする冗談を交えるような会話である。先生は五島のこの変化に気付いたのである。
それと同時に、先生はうれしくなった。五島が中学を卒業したとき、先生が気がかりだったのは、まさにそれだったのである。つまり、人間不信から来る塞ぎである。誰も信じることができないとして、人とのかかわりを極端に避けようとするのである。これは、今後五島が生きていく上で、早いうちに解決しなければならない問題であった。それが解決できないと、社会生活を送ることもままならないからである。それがどういうことであるのかは、ここで改めて記す必要もないであろう。いずれにせよ、先生が五島に対して最も懸念していた問題が、解決したのである。
「ねえ、そのマンガ、後で私にも読ませて」
「・・・いいよ」
五島は、そうねだる先生に一瞥もせずに、マンガを読みながら応えた。
次の日、五島はマンガを貸してくれたクラスメートに、
「昨日借りたマンガだけどさ、あれの続きを3冊ばかり、貸してくれないかな」
と頼んでいた。
「そんなに面白かった?」
クラスメートは訊ねる。
「ああ。・・・ってか、俺よりも、姉貴がはまっちゃってさ。『続きを早く読ませろ』ってせがむからさ」
「そうなんか。そんじゃ3冊といわずに10冊くらい持ってくるか?」
「重いだろうよ」
「いや、お前んちに直接持ってくから」
「・・・・・・・・・ん?」
五島は我が耳が信じられないとばかりに聞き返した。
「だから、今日一回家に帰った後、お前の家にマンガを持ってくって言ってんだよ」
「・・・いや、いいよ。来なくて」
「いや、行く!」
どうやら、そのクラスメートは別の目当てがあって、五島の家に行こうとしているらしい。もっとも、その理由は何となく想像できるが・・・。
結局、五島が拒絶するのも聞かずに、そのクラスメートである青井雄太は五島の家までやってきた。大きなスポーツバッグを抱えて。その中には『るろうに剣心』が全巻揃っていた。
「まあ、そのためにわざわざここに?」
出迎えた白石先生は手で口を押さえて驚いていた。
「はい。お姉さまのために、喜んで持ってきました」
白石先生は「お姉さま?」と疑問に思ったが、何となく五島が口を滑らせたのだろうと思い、そのまま五島の「お姉さま」として過ごすことに決めた。
結局、先生が五島の「お姉さま」ではなかったことは、すぐに青井にばれてしまった。理由は簡単で、五島がいつものくせで「先生」と呼んでしまったからである。それに気付いた青井が追及したため、五島は真相を話すことになったのである。
「・・・つーか、こんなのギャルゲーでもありえねえよ」
「・・・なに、ギャルゲーって、これに似たようなシチュエーションが多いわけ?」
「いや、知らねえけど」
青井はそう言うとニカッと笑った。五島もフッと笑みを浮かべる。
「ま、こんなこといろんな人間に知られると厄介だからな。俺の口からは広めないようにするわ」
その言葉に反応したのは先生であった。
「青井くん、ありがとね。本当にありがとう」
先生は青井の手を握り締めて何度も感謝した。
青井が帰るとき、五島は訝りながら、
「んで、本当はどうして黙ってようと思ったんだ?」
と訊いた。青井は、半ば五島の予想通りの答えを口にした。
「だって、こんなきれいな人、ほかのクラスのやつに知られると、絶対狙うだろ。敵は少ないに限るからな!」
青井は冗談を言うような口ぶりであったが、その目は真剣であった。どうやら、本気で先生のことを狙うつもりらしい。
「ま、無駄な努力をせいぜいするこったな」
「いつまでもそうやってあぐらかいてられると思うなよ」
そう言い合うと、二人はニッと笑みを浮かべて、玄関で別れた。
「それにしても、私、安心したわ」
青井が家にやってきたその日の晩、先生は布団の中でマンガを読みながらつぶやいた。
「何が?」
五島も一緒になってマンガを読んでいる。
「五島くんにこうしてお友達ができたから」
「・・・・・・」
五島は何も言わなかった。マンガに夢中だからというわけではなく、何も言葉が思いつかなかったからである。
「・・・これで、私の役割も終わったわね」
「・・・・・・」
五島はやはり何も言わなかった。今度は、いろいろな言葉が思いつき、そこからどの言葉を選ぶべきかに悩んだからである。
先生のその一言は、五島にとってはまるで永遠の別れを感じさせるようなものであった。それを五島の耳が受け取った瞬間、様々な思いが頭の中に現れた。
まだ別れたくない。これからも一緒に暮らしたい。まだ役割はある。元先生と元教え子の関係のまま終わりたくない。もっと親密になりたい。会えなくなるのは嫌だ。
これらは全て本音のような気もするし、一方でどこか嘘のようにも感じられた。どうしてこんな矛盾した感情を抱いてしまうのだろう。五島にはわからなかった。そして、自分にとって先生とはどういう人なのかというのを改めて考える。自分の元担任であって今は一緒に暮らす若い女性である。にもかかわらず、恋人ではない。先生はあくまで、五島のことを「今も気がかりな教え子」と見ているだろう。しかし、先生が言うには「もう役割は終わった」とのことだから、五島に対する気がかりは解消したことになる。そうなると、先生にとっての五島はただの元教え子か一緒に暮らす年下の若い男の子のいずれかになるはずである。先生にとって、そこには相手を愛しく思う感情はあるのだろうか。そして、五島の場合はどうなのか。
結局五島は眠りに落ちるまで、答えを導き出すことはできなかった。
それからの五島は、学校での生活態度は明るいものとなり、五島に話しかけてくるクラスメートも増えてきた。気がつくと、女子からも声を掛けられるようになり、五島の性格も本来の明るいものに少しずつなってきた。
元々五島は、そこにいるだけでその場の雰囲気が明るくなるような子どもであった。両親が生きていた頃は、その明るさと人見知りせずにどんな人に対してもニコニコと話しかけてくる姿がかわいらしかったためか、近所の人からも大変かわいがられていた。そこに影が入り込んだのは、五島の父親が過労で亡くなった頃からである。そのときも、悲しみに暮れる母親を慰めようと、子どもであった五島は努めて明るく振舞おうとしていた。それが、母親を立ち直らせるきっかけにもなった。そんな五島のために、母親は再婚を決意したのであった。それからの急転直下と地獄のような日々は言うまでもない。その日々が、五島を人間不信に陥れ、あるきっかけで凶暴になる人格にさせたのである。
その後、母子家庭となった後に出会った白石先生とのふれあい、そして母亡き後の先生との共同生活は、五島の冷たく固まった心を氷解させた。身近にいる人に対して心を開くようになり、自ら人に話しかけるようにもなった。
「!」
あるとき、五島はハッと気がついた。五島が白石先生に対して思い続けている感情がなんであるのかがわかったのである。確かに、尊敬の念もあれば愛情のようなものもある。しかし、何よりも先生に対して抱いている感情というのは、「感謝」だったのである。そしてそれは、あの日に言おうとして今まで言えずにいた言葉でもあった。先生の突飛な言動ですっかり影を潜めてしまったあの言葉である。
(家に帰ったら、まず先生に「ありがとう」と言おう)
五島は帰りの電車の中でそう誓った。
しかし、五島のその誓いは、実現することはなかった。
家に帰ってきた五島がまず目にしたのは、居間で倒れこんでいる白石先生の姿だったのである。