ウチの学校は学校法人がキリスト教だ
キリスト教には献金というものがある
献金というのはもともと「=気持ちであるはず」
こ れ は ひ ど い
表 裏
名前まで書かせて金額も書かせる
これが何の意味があるのかは僕ら生徒には分からない
というか分かりたくない
その上担任でもない国語教師のM.TがHRで
「自分のことだけ考えるのは人間ではない。繋がりがあるからこそ人間なのだ」
と教壇で弁を奮っていた
ここで言うのもなんだが、この教師は他の教師に嫌われてるようだ
生徒の中でも嫌う者から尊敬し、崇めているような者までいる
さらに彼が言うには
「他の人のために一食を我慢して献金するのだ」
当然一食の金額は多種多様だ
500円と言うが中には250円の者もいる。1万円の者もいるかもしれない。
では何故名前と金額を書かせるのか
安い金額を書き、納めた者は差別されるのだろうか
最後に彼は
「これは強制的ではないが良心的強制だ」
と言った。一体どう違うのか
良心が無かったら出さなくていいのか。
貧乏で出せない人がもしいたとしたらその人を卑下するのか
そういう事を軽はずみで言う人間のほうが良心が無いのではないのか
本当に250円でも良心があると認められるのか
答えは口には出せないと思うがノーだろう
でなければ匿名性をなくすことはしない
その記名制のせいで出す最低金額も拘束されてくるのだから
「500円さえ出さない○○は良心が無いなぁ」
と言ってるようなものだ。
それによって提出する強制力に金額の強制力も加わる
人間の心理を揺さぶってさえいる。学校こそ良心を持つべきだ
第一、この献金が貧しい国のために使われるのか定かではない
口では当然のように言うが証拠は無い。知る権利さえない
教師、もしかしたら校長の懐に収められるのかもしれない
文学チックに書きたかったけど疲れた(´・ω・`)
結論:ウチの学校ダメポ

