梅棹忠夫 その2 | ロビンのブログ

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梅棹さんは、前回の記事でも触れたよう、発見したことを全てメモっていたのだが、最終的には記述用具をカードにして、1項目1カードで蓄積していったという話。これが彼の友人達の間にも広まり、京大の文化の一つになったらしい。カードの方が整理・検索・組み換えに便利だからだが、職業上の必要があるとはいえ、こういう地道な作業を長年続けるのはちょっと常人には出来ないよね。
実際システムが広まっても、使いこなせる人はあまり多くなかったらしい。

で、そのカードなんだけど、

カードに書かれている発見やアイデアを組み合わせることで、
さらに新しい発見やアイデアを作り出すことができると。

人間はアイデアを0から作り出すことは出来ないんだよね。
全ては既存のものの組み合わせから新しいものを作り出す。

どの分野でも言えることなんだけど、完全にオリジナルなものなんて、この世には存在しないんだ。

文明というのは、人々の交流、交易が盛んな場所において、
良い物が取捨選択され、アレンジされ、発展していく。
発明というものは、既存の環境から出来上がるものだから、
全く面識のない別の人間がほぼ同じ時期に同じ発明をしたりする。

スケールはずっと小さいけど、ブログや掲示板でも、
自分が考えて書いてみたことでも、同じくらいの日時で別の人が同じようなことを書いていて、
まるで自分が盗作しちゃったような状態になることが度々あるね^^
両者とも同じような情報を得て、同じようサイトを読んで考えているわけだから、そういうことになるわけだけども。

まあ、社会におけるアイデアの作り出され方は、そういうことなんだけど、
個人レベルにおいて、それをやってみるのが梅棹さんのカードシステムということだろう。


でも、アイデアというものは、既存の素子を組み合わせるというよりも、ぱっと天啓のようにひらめく、完全オリジナルな崇高なもの、というイメージが一般的にはあると思う。
アメリカ社会なんかを中心に著作権が異常なまでに保護される状況は、そういうオリジナル信仰が根底にあるんだろう。



梅棹さんは「知的生産の技術」でこのように書いている。

 じっさい、カードというものは、つかいだすまでに、あるいはつかいだしてからでも、かなりの心理的な抵抗があるものである。便利なことはわかっていても、なにか、いやな感じがする。たとえば、自分の知識や思想を、カードにしてならべてみると、なんだ、これだけか、という気がして、自尊心をきずつけられるような気がするのである。

 わたしたちにはいつも、無限の世界とのつながりを心のささえにしているようなところがあるらしい。カードは、その幻想をこわしてしまうのである。無限にゆたかであるはずの、わたしたちの知識や思想を、貧弱な物量の形にかえて、われわれの目の前につきつけてしまうのである。カードを使うには、有限性に対する恐怖にうちかつだけの、精神の強度が必要である。

そう、人間には内面に無限の世界の広がりがあると思いたい。
いや、実際に言語化、記号化できない部分の精神の働きはあるだろう。
しかし、言語化、記号化出来ないものは、やはり外部にも理解できる形にできないはずなんだよね。
(音楽や絵画などの芸術は言語や記号に出来ないものを表現するものだけど)

塾長 に以前教えてもらったショーペンハウアーの言葉なんだけど、

 人間の力で考えられることは、いついかなる時でも、明瞭平明な言葉、曖昧さをおよそ断ち切った言葉で表現される。難解不明、もつれて曖昧な文体で文章を組み立てる連中は、自分が何を主張しようとしているかをまったく知らないと言ってよく、せいぜいある思想を求めて苦闘しながら、それを漠然と意識しているのすぎない。だが彼らはまたよく、言うべきことを何も所有していないという真実を、自分にも他人にも隠そうとする。
           「読書について」


人間は明瞭に言語化、記号化できないことについては、結局分かっていないのと同じことなんだよな。

梅棹さんがカードを使う意味も、知識や思想を明瞭平明な素子にて、再構築することにあるんだよね。