あの日から1年。


時の経つのがあまりにも早くて驚いてしまう。
1年前の今日のことを、つい最近の出来事のように感じているからだ。

帰宅途中・家事の最中・ふとした瞬間、ここにいることが夢なんじゃないかと思ってしまう。
何が現実かわからなくなることが、ある。


私は岩手から離れてしまった。
その背景には色んな事情があったからだけど。


震災後は熟睡できることが少なくなって。
眠れるようになると今度は震災の夢を毎日のように見た。
息子と離れ離れになる夢ばかりだった。
怖かった。



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沢山の人が経験した震災。
沢山の人の中の、私の記憶。




2011.3.11


長い長い揺れの中で津波が来ることを確信していた。

「○○・・・(息子の名前)。あぁ、どうしよう・・・。○○・・・。」

揺られながら名前を何度も呟いていた。
海から200mも満たない場所にある小学校に通う息子が気がかりで仕方なかった。


長い揺れが止んだあとも帰れるわけもなく。
何が起きたか分からないまま、ただただ患者対応等の業務に徹していた。
通りすがりに医事課の小さいテレビから見えたのは仙台空港に迫っている津波だった。


病院には次々と人が訪れ、ショックで動けなくなる同僚たちもいた。
私は小刻みに震えながらも動き続けた。
そうしてないともう動けなくなりそうだったから。


病院の中はまるでドラマのようだった。

「これって現実なんだよね。」

看護士さんがポツリ、呟いていた。


次に通りすがりに耳にしたのは「全域水没」というラジオからの言葉。


あの時の気持ちはどんな言葉でも表すことができない。
体の力が抜けていく。
「絶望」 「虚無感」 「僅かな希望」 が何度も何度も何度も、私の中で行き来した。




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あの日のこと。



職場で津波にのまれ、びしょ濡れになりながらも歩いて奥さんを探しにきたという同僚の旦那様。
寒さにガタガタ震えながら経緯を話してくれ、私も自分の知りえる情報を伝えた。
病衣とサンダルを貸し出し、着替えるとすぐにまた奥さんを探しに行ったこと。
(後日同僚と再会し、ご家族の無事を確認できました)



帰宅途中に震災にあい、家に帰れずに職場へ戻ってきた同僚。
旦那様が連れてきてくれた双子の子供達を遠くに見つけ、駆け寄り抱きしめた後姿を見て胸が苦しくなったこと。



布団をかぶり震えて泣いているお婆さんのそばに寄り添い、励ましあったこと。



息子が避難していた漁村センター。
2階建ての建物だった避難所の1階床上部分まで津波は届いていたという。
老人と女性、子供達は登ることのできない2階部分の屋上へどうにか避難させ、他の男性達は1階部分の屋上でその全てを見続けた。

「ここも、もうダメだ。のまれる。」

男の人たちがそう思っていたこと。



もっともっともっと、沢山のこと。



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余震に脅え、恐怖と絶望しかなかったあの夜。


震災直後消えたままのホールのテレビがいつの間にかついていた。
みんな釘付けだった。
気仙沼が燃える様子をただ、見つめていた。


ラジオから聞こえてくる沢山の人の励ましも素直に受け止められなかった。

私は私のことしか考えられなくて。
テレビの前で見てることしかできない辛さや苦しみを考える余裕もなかった。


自分自身含め、人の本当の部分を見た気がする。




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翌日、元気に笑う息子の顔を見つけた。
駆け寄り泣き崩れた私の後ろで、何人の人が会えない家族を思い、胸を痛めていたんだろう。



震災が起きてから翌日の夕方に私は自宅に戻ることができた。
3日後に衛星電話で妹に連絡をした。
自宅にて携帯電話がつながるようになったのは2週間後。
ライフラインが全て復旧したのは2ヶ月半後だった。


大切な人を失った。
大切なものを失った。
大切なことを教えられた。


あの日からの記憶はそれぞれの人の中に、それぞれの形で残ってる。
終わらない、無くならない、記憶。

いつかきちんと気持ちの整理がつく日が来るのかな。
今はただただ、自分たちの生活を取り戻すことに無我夢中だ。


何年先になるかわからないけど
かつてあった穏やかに流れる時間が
あなたにも私にも
訪れる日がくることを願って

決意新たに今日のこの日を過ごそうと思う。