今日、電車に乗りながら

「ねじれ国会」について考えてみた

そもそも、学校で勉強した時から

参議院ってのは、最終的には衆議院に従うわけで

だから、なんかタレントが議員になったりするので

意味あるのかな~ って思っていた。


ヨーロッパの貴族院のマネなんだろうなぁって。

貴族が国を動かしてて

その権限が市民にうつったとき、

でも、貴族の人も立ててあげないと、ということで形を残し

実権は市民がもつ


そんなところだろうと思っていた。



でも、今の考えはすこし違う。


国を統治する視点というのは、それなりに訓練されていないと難しいと思う

だから、実権は市民がもつけれど

実際の運営のアドバイスを、貴族たちに求めないと国が運営できなかった

そんなところではないかと思う。


ニュージーランドは一院制で

政権が変わるたびに、民営→国営→民営

となっているそうだ。

もちろん、ただ、政策の違いを出すためにそうしているのではなく
やむを得ず、ということだが、

極端な民営化、自由経済は、反動で国営化、統治経済
→保護主義へとつながり

とくに貧しくなった国は、外国人労働者排斥に走ったのではないか。

実際に、外国人じゃなく国民に仕事を!!と訴える国も出てきている様子。


話を戻して、ねじれ国会

ねじれているのは、実は仕組みを作った人の思惑通りなのではないか。

そう気がついた。


極端にというか、簡単に世論や世相、政策で、

制度がひっくり返ると、

それこそ、見た目に鮮やかで、華やかで、改革心を揺さぶるが

過激で、弱者や黙々と仕事をこなしている人たちにしわ寄せがきて

反動を産み、また制度が変わる



「メタボリック検診」や「レセプト電子化義務化」にその

大改革の志と、それに翻弄される現場でいま仕事をしている。


だから、国会は、ぱたっと制度が変わらないように出来ている

いや、

仕組まれているのではないか。


賛否が分かれる問題ほど、

ねじれ、結論がすぐに出ない

強行採決などの政治手法を駆使しても

すぐにはひっくりかえらない。


間延びしているうちに、誰もが冷静になり、

本当に必要が考える時間ができてきている。




そのために、仕組まれた「しかけ」ではないか。




それが、高田馬場につくまでにたどり着いた

結論。