みんな死ねばいい、とアスカのように思う!? | Cavasaki Air Service <Beer Squad>

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<Still Waiting (sum41)>


『あとがき』、に今回のタイトルな、
 コメントを記載した本を読みました。

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<中略>
僕が震災後この国の言説に乗れないのはそこで作り出されるものが相変らず「魚の群れ」たちによる「空気」であり、その空気を「愛国」と呼ぼうが「反原発」と呼ぼうが同じである。

<中略>
ロマン主義的「国民」は国を愛していると口走り、実体の無い「民族」を信じて信じてないものを罵ればいいからバカデもすぐなれる。「私」になるのが面倒な「土人」は「公」に自分をゆだねて一体化し何かになった気がしてしまう。しかし柳田の考える「公民」は「公」をつくるために、まず「個人」でなくてはならないと考え、そして、記録し思考し交渉していく「ことば」を習得し、実践していって初めて可能である。つまり、とても面倒だ。

しかしその面倒さを回避し「魚の群れ」(土人)である限り、この地震のどさくさで一瞬「社会」や「公共」や「日本は一つ」と口走ったところで、そこに何かの可能性が見えるわけではない。既にもう人々の関心は「震災」から「原発」に、そして意味もわからないまま「TPP」に目先だけはシフトしつつ、結局、「サッカー」にいくんだろう、と思う。これからも「空気」や「群れ」の行く先をただ求めているだけではないか。

今、あるのはメディアも知識人もその「空気」をひたすら読み、ツイートしつつ「空気」をチェックし発言するさもしさだけだ。それが「現代思想」や「文学」としてある。僕は誰かと同席するたびに隣でツイッターのフォロワーをチェックしつつ発言する「思想家」たちを見て、みんな死ねばいい、とアスカのように思う。近代的個人を可能にするには「発言権」を担保することが重要だが、WEBは「土人」にも等しく「発言権」を与えた。そして今や、大衆を動員するのではなく、「大衆」にメディアも知識人も「動員」されている。首相も東と西の知事も、そしてある意味では「天皇」さえ「大衆」に動員されている。ああ、これは土人の国だと思う。何の比喩でも@@(読めない漢字)でもなく、ただ、事実として思う。

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sum41 の曲は、破滅的な絵に合うよね~

MADも見事です。