夢二のグッズと一緒に、ミュージアムの図録も求めました。

 

 

この図録によると、

 

 

”大正の歌麿ともてはやされた夢二だが、昭和に入ると人気に翳りも出はじめて、

生活は破綻。とうとう結核を患い臥せる身となる。”

 

様々な浮名を流した夢二ですが、晩年は看病する人もなく1人で闘病している身を案じたのが

 

友人である富士見高原療養所の所長、正木不如丘でした。

 

その薦めに従い、夢二は昭和9年1月19日

 

"雪の降る日にたった1人でタクシーで療養所に乗りつけて、元気そうに入院した”

 

と図録には、記されています。

 

 

若い頃は、自堕落ともいえる夢二の生き方に嫌悪感を抱いていた私でしたが、

 

その気持ちが薄れたのは昭和48年に出たこのアルバムであることは前述した通り。

 

 

 

「夢二の詩集から色々な詩を寄せ集めて作った」という舟木さんのお話を聞いて

 

当時、夢二の詩集も買ったものでした。どこかに仕舞い込んでしまいましたが(゚ー゚;

 

 

誰もが知っている『宵待草』を柱にして男女の愛憎が綴られているこの組曲。

 

全篇を通じて甘酸っぱさ、切なさ、そして”やるせなさ”が漂います。

 

 

今でも歌詞を見ただけでメロディが蘇るのは、何度となく聞いた故でしょうね。

 

 

昨年の新橋演舞場公演のサンクスコンサートではこの組曲が歌われたと聞き、

 

行かれなかった私は臍を噛んだのでした。

 

その折の「女」は葉山葉子さんだったようですがレコードでは、コロンビアローズさん

 

 

 

最後は

 

”愛するものはかなし 愛するものはかなし

されど愛し得ざるものはさらにかなし”

 

という舟木さんのナレーションで幕を閉じます。

 

時に哀しく、時に軽快に。

 

舟木さんの歌声と、時折入る男女の掛け合い。

 

そして山路進一さんの曲の巧みさに惹き込まれ

 

聞き終えた後は、いつも一冊の小説を読み終えたような、

 

あるいは観劇の後のような高揚感を味わったものでした。

 

 

そして、平成12年の新橋演舞場舟木一夫特別公演の演目は

 

『宵待草 夢二恋唄』

 

 

 

 

 

今になって気づくのも迂闊な話ですが、

 

この年に限って、9月1日~26日と、9月公演だったのは

 

9月1日夢二の命日にちなんでのことだったのでしょう。

 

 

このお芝居で今も鮮明に覚えているのはそのラストシーン。

 

富士見高原療養所でベッドに横たわる夢二の横に

 

波野久里子さん扮する、最初の妻たまきが賄い婦として寄り添います。

 

これはフィクションではありますが、図録にはこんな記述がありました。

 

 

 

”その年の九月一日、手厚い看護の甲斐もなく、夢二は富士見で没した。夢二を尊敬し心から接していた看護士達に看取られ、息を引き取ったという(享年五十一歳)。夢二の死後半年ほどして、夢二の最初の夫人であった岸たまきが、療養所を訪れ、縫い物や洗濯など奉仕をしたという話も伝えられている。彼女の夢二への並々ならぬ想いと、故人に代わって恩に報いたいとする暖かい心が胸を打つ。”

 

こうした事実を踏まえての、あのラストシーンだったのだと腑に落ちる思いでした。

 

この公演のコンサートのトークで、舟木さんが

 

「夢二は何人もの女性と浮名を流したけれど、誰も夢二を恨む人はいなかったようだ。」

 

とおっしゃっていたことも、この文章を読むと納得できる気がします。

 

そして最後は、夢二の生涯を語る案内人として、舟木さんが舞台に登場します。

 

思えば、このアルバムが歌とナレーションという構成から成り立っているように

 

夢二を演じながらも、案内人として俯瞰でそれを眺めるという構成と重なり、

 

若き日のこの組曲の集大成とも言うべき舞台だなあとその時ふと感じたことを思い出します(*v.v)。