先に、川奈栞さんブログ「朝の妄想劇場」のへの小コメントへのご返答を戴きまして、ご指摘に従います限りにて、作品を純粋に探究された方のお考えに異論ございません。
全く異なる作品同士を比較するなら、余りに主観的に陥るのと思いました。

この私の居住する近所の開業歯科医さんに随分と話し好きな先生が居りまして、診察室へいつも同時に三人くらい患者を座らせ、順々に巡って診るのが当の歯科医師の流儀です。
ある日のこと、私のと同時に診察を受ける若い女性に向かって先生が曰く、
「例えばさ、鴎外と最近の作家の小説を比べたら、どっちが優れていると思う?」
すぐ横で会話を耳にしながら、難しい比較だなと思う私。案の定、その女性は診察椅子で横になったまま、返答をなかなか出来ずにおります。
「これはね、いまの作家の方が優れているの。言葉も文章だって、常に変わっているものでしょ。だから、昔の作家と現在(いま)の作家なら、やっぱり現在の作家が優れているってことなんだよ・・」
難題を実にあっ気なく自己流に解説した歯科医師の言葉が、あまり単純に過ぎます所以もあって、それはある意味では納得のゆく理屈でした。しかしながら、実際は異なる同士を比較する必然とてなく、これは意味を為した会話ではないのと私は後日に思いました。互いの利点(長所)
から学べば良いのであり、当の歯科医が論じたように双方へ優劣を決するとの考え方は、それは論者の主観上に成立するのみの概念でしょう。
あくまで主観の感想なのですが、朝妄とは、過去のあらゆる分野の文学を、日々にもっと掌編化した現代の散文詩と、私は思います。

戻って、漱石の「夢十夜」の第六夜の中で論じられる部位ですが、
▼「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と云って賞め出した。
 自分はこの言葉を面白いと思った。それで一寸若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、 
「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」と云った。▲
問題の「第六夜」より上に引用しました文章中、何故に「若い男」なのでしょう。しかも、漱石は「若い男」と、この文章上に重ねて記しております。単に、「男」では通じなかった理由があるのでしょうか?
引用した部位に関しては、研究者により以前からいろいろと論じられますが、性的な象徴として、「若い男」と限定したように私は考えます。「第六夜」を、ストレートな性夢として捉え読むと、漱石自身のコンプレックスや性への憧憬を綴った文章なのと我流に解釈する私です。
品性が伴わない限りは、性的な内容を記すのは不可能とも私は考えます。知性とストイックさを感じさせない性を表現したら、非常に下品です。品性ある性的な描写を含みます散文
との一点を挙げれば、朝妄は「夢十夜」に劣らずと考える私です。

無論、文学的な優劣を語るのとは別なるところの、主観的な感想の一片です。


  字数が多くなりまして、この場を用いましたこと、文末ながらお断り申し上げます。