この度は奈良県で起きた男子高校生が同級生を殺傷した事件から、表題の殺傷事件を想起した私です。

それは40年前(1969年)の初夏に起きました。サレジオ学園高校の1年生が同級生の男子生徒を学校裏手にあった畑にて殺傷し、首を切断した遺体を放置した上、第一発見者を自ら装い、暴漢の仕業だと虚言したのでした(後年、サレジオ学園は移転しており、現在の校舎は事件現場とは位置が異なります)。
殺害された生徒と容疑者(事件当時、二人は高1)は、中学時代から同私立男子校の同級生であり、周囲からは仲のよい同士と思われていたらしい。高校へ進学して後、殺害された生徒と容疑者は個性の差異が顕著となり、被害者は明朗闊達な好青年として、被害者は目立たない生徒として、互いの印象が随分と異なっていた様子でもあります。
当初は変質者による猟奇的な事件かと思われたものの、畑仕事に就労する人が一部始終の目撃証言をした事由によって、事件の解決へ向けて多くの時間を要しませんでした。
被害者の遺留品が警察からすぐ返還され、受け取った父親は嗚咽を抑えながら、警察署の洗面所にて息子の腕時計に付着した血のりを洗い流していたとの報道があります。その腕時計は、高校への進学祝いに、父親が記念品として愛息子へ買い与えた代物であったそうです。
その後、少年法の庇護により匿名にて裁かれた容疑者は、新たな戸籍と氏名を与えられ、社会復帰してから司法試験に合格し、某都市にて法律事務所を開いたのは知られる話と思います(後に、法律事務所は閉じられています)。
今般もまた、少年法の意義に関して考えねばならない機会を得たと考えます。裁判員制度ばかり報じられたりし話題を集めますが、司法の整備は依然として不備な部位が多い実情です。どこから着手して良いのかさえ、確かに見出し難いです。
「自身の幸福は、他の人々の幸せの中に真に見出される」とは、詩人ゲーテの言葉からなのですが、ならば他人の幸福を貪欲に探究したいものと思える。
「ワテがどんな汚い格好しとっても、兄弟たちがみんなきれいな格好しとったら、ワテほんまにうれしいで・・・」
舞台での藤山寛美さん(故人)の名セリフから。特にアホ役を演じたなら、他の追随する余地を認めなかった名優さんの見せ場です。
他人の幸福を第三者が理解するのは至難とも申します。幸福な人は皆がそれぞれ異なる顔つきをしているからです。不幸せな人は誰もが同じような顔に見えるとも言われますながら、今日の雑踏を行き交う人々はどんな顔を皆がしているのかと案じられるのは、雲行きがやや心配される日曜の朝だからなのでしょうか。
休日の朝、国内少年法とゲーテの詩とを思い起こしたひと時でありました・・。