物品販売とは、たった一人でも買手があれば成立するのが理屈であり、生ものや生きもので限り、買手が付くまで待てばいつか売れるかも知れないと構えるのも手段と思います。

この私が大学生だった`70年代後期の往時、中央線O(オー)駅の商店街通を小学生と思しき兄弟らしい男児二人連れが読み古しの少年漫画週刊誌を幾冊か抱え、古書店を周っている光景に偶然にも出会いました。兄は小学校高学年生、弟は低学年生に見えましたが、二人はいずれの古書店(古本屋さん)でも、やんわりと断られており、

「そういう本は、売れないの・・・」

とか、諭され続けておりました。

兄弟らしき幼い二人連れは結局のところは諦観して帰宅したと思うのですが、彼らが父親と為った(のであろう)世の中が変わった現在、ネットに販売告知を出しておけば、そのうちに買手が付きそうにだって思えます。あの日、売ることが出来ず兄弟が家に持ち帰った(であろう)読み古した少年漫画誌は、現存すれば一冊が1,000円以上でネット上では売れていたかも知れないとさえ思います。

さて、ネットを見ながら、実に不思議な価値観が多々に現存している現状に私は気付き、確かな自分自身と、また確かなる人との触合いを再認識したくなりました。

アメリカ映画の古典傑作「サンセット大通り」では、既に引退した老女優が人里離れた洋館に蟄居(ちっきょ)しており、サイレント映画時代の忘れられた大スターである彼女は、いつかまた映画出演の話が来るものと信じ、日々に着飾って待ち続ける姿を描いた内容でした。最後は精神に錯乱を来たし、老いた女優は新聞記者を過失から射殺してしまう。事件を聞きつけ、当の現場に大挙して押しかける新聞報道関連の各位。

殺人を犯した「元大スターであった老女優」が主犯である殺人事件現場を一斉にフラッシュが焚かれてカメラは収めるも、老いた大女優は彼女最高の笑顔を崩さずに、いつまでもカメラ放列の連射に応じている、それがラスト場面でした・・。

一人でもファンと名乗る存在が現れれば、スターは健在なのですから、射殺されてしまう若い男性の新聞記者は、彼女のファンであるから記事を特集したいと偽って、老いた大女優に近づいたのでした。人の目を回避するように余生を過ごす「忘れられた大女優」とか、ブン屋には記事臭い何かを感じさせたのかも知れません。

人生最後の大注目を老女優は一身に集め、彼女の作り上げた笑顔にて映画は終わります。

老いた女優が一人で過ごすには、不相応に大きな洋館であり、庭園のプールに、撃たれた新聞記者の遺体は浮遊しているが、彼は終盤には老女優から自ら離れようとして悲劇に至りました。

女優の精神状態が正常ではないと彼が解った時点、その瞬間だけ女優の思考回路は一時だけ正常に回帰したのかも知れません。ファン(と名乗る)男性を射殺してしまった老女優、彼女には後はバーチャルな銀幕世界の彼方の自身しか、もはや実在しなかったのでありましょう・・・。