【古寺巡礼】  ~白隠の里を歩く~

 

帯笑園と植松本家

 

沼津市原194-1(国の登録記念物)

帯笑園は東海道原宿の中心部本陣の東側にあり、街道に面して植松本家の庭園です。

植松家の庭園である「帯笑園」は当主が代々丹精を込めて整備し拡大してきた庭で作庭は初代がこの地に土着した天正12年(1584)以降だと推定されます。京の金閣寺の庭園に似せて作られたと言われていて、園内に「望嶽亭」や「臨春亭」他、四阿、土蔵が建てられておりました。当初は「菊花園」とか「植松叟花園」と呼ばれておりましたが、寛政3年(1791)に儒学者の海保青陵が「帯笑園」と名付けました。

作庭当時の広さは約500坪もありましたが、現在では江戸後期に描かれた絵図より三分の一ほどに縮小され残存する建造物も「臨春亭」「西蔵」「居間蔵」くらいです。

今回原宿の6ヶ寺訪問の途中で立ち寄ったため平日で、現在は沼津市の管理下に置かれていて土曜・日曜・祝日の9:00~16:00開園ということで施錠されていました。

 

植松本家は甲斐武田氏の家臣であった須田相模守の子、初代出雲季重が武田氏滅亡とともに現在地に移住したところから始まります。二代理兵衛重次、三代理兵衛季定で、四代の逵季からは与右衛門を名のり白隠禅師の後援者となっています。

六代与右衛門季英は号を蘭渓と言って帯笑園の整備に力を入れ、七代与右衛門季興は京の画人円山応挙の弟子となり画号を応令と称しました。八代与右衛門季敬は書画に通じ、漢詩を頼山陽に画を岸駒に学んでいました。また愛鷹牧の牧士筆頭に任じられた幕臣でもありました。九代までが江戸時代で与右衛門を継いでいます。九代季服の時代に明治維新を迎えますが、それまでは愛鷹牧の取締をしながら蘭学や茶道も学んでいたようです。

十代は幹、十一代は重雄、十二代の重佳は早逝しましたが、十三代の靖康と続きます。植松本家の菩提寺である徳源寺の墓誌を見ると、昨年(令和5年5月18日)に十三代の靖康氏が亡くなっているようなので今は十四代目でしょうか。

七代目から植松家は文人画人との親交が深く東海道13番目の宿場「原宿」の中心部にあり東海一の名園「帯笑園」もあったことから数々の訪問客がありました。そして応挙や芦雪、若冲、岸駒など名画が多く残されていて(東博に寄贈多数)、江戸時代は大名や十四代将軍徳川家茂も訪れています。

 

 

 

   

 

 

   

江戸時代後期の植松本家と帯笑園絵図  現在の帯笑園(居宅は現在、三島信用金庫と静岡銀行)
左方向が北で東海道(上が江戸方面)
真ん中左に「望嶽亭」左端が居宅、右側(南)に庭園

 

       

    帯笑園入口            園内の建物(奥が蔵のようです)

平日なので施錠されて入れませんでした

 

   

      帯笑園 庭園

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                       植松本家墓誌
                        (上段右から10代、3番目12代、4番目11代)
                        (下段右から11代弟知彦、3番目13代)

 

   徳源寺の植松本家墓所