何も書けなかった。公演中は当たり障りないこと、言わずもがななことなどちょこっと書いて、あとはほんとに書けなかった。頭まっしろで面白い楽しいかっこいいかわいいで埋め尽くされてブルース・リーじゃないけど感じることに精一杯で考える余地すらなくて。自分の脳の限界を覚った。都合5回観劇したけど5回では鑑賞し尽くせない。作品に負けて置いていかれた感じ。観劇でここまで疲労しきったことはない。


公演が終わり1日置いてサントラを聴く。少し冷静さを取り戻したところに劇中そのままの音源を注いで頭の中でちょっとだけ空気が動いた。できたスペースに言葉を浮かべてみる。今なら何か書けるかもしれない。文章を組み立てるのは難しいけどサントラに沿ってなら言葉を並べることができるかもしれない。




M-1 (…とそれらしく表記。実際の音響台本?通りではないだろうけど)
胎児は母の心がわかるのだろうか。胎児は生まれたいと思うのか。自殺できるのか。希望を知っているのか。その眼差しに何を刻み込むのか。

公演中の平日にうっかり『ゴミたちの葬列・百鬼夜行』を聴いてしまい、直ぐに多摩に向かいたい気持ちに苛まれる。今日の自分がこれまでの自分の集大成的な意味合いでか自分の人生の目的地のようにすら思えたこの公演のために有休も取れない状況が腹立たしくて嘆かわしくていったい何をしているのかと大きくへこむ。

それと同程度に今、何を強いられるわけでもないのにただ座っていることを許されない思い。スモークとともにあのプールの奥、骨組みの向こうにちらりと見える白い肉塊?自分自身のこの公演に向けた想いも堰を切って流れ出す。申さんがずっと語っていた深海洋燈の夢。叶わないのが夢だと思って生きてきた自分にとって眩しすぎて、その光の陰の泥まみれの手型がさらにまばゆい。(おそらく)見るに耐えないほどに見切り発車で、ただその瞬間に舞台に立っていてほしい役者たちを集めて、どんなシーンのどんな役を演じてもらうかも決まらないまま、とにかくこの仲間と一緒ならと使い果たしては持ち寄り継ぎ足して突き進んだ座組。その深海洋燈と役者それぞれの生きてきた全てをまとめて叩きつけたようなそんなオープニング。とにかく立ち上がれと言われているようでふらふらと両足を踏ん張り、でも為すべきことも見つからず溝川から鼻から上だけ出してまずこの光景を眺めよう、感じよう。この溝川に堆積した泥に爪先立ちしているのが自分だ。十月十日何を聞き何を思ったのか。引き摺り出され何を思い溝川に流され何を思う。這い上がったその先に何を見たのか。

そして少女は溝川から産まれた。

まるで雷が落ちるような身を躱したくなるような心臓が痛くなるような音と、硬い弦を弾くような…バイオリンのピチカート?のメロディが印象的。

M-2
聴いた瞬間に浮かんだのがねこんけあめの曲だと。どの曲がどこで使われたのかはっきりと覚えていないので間違いもあるだろうけれど瞬間的に、あるいは記憶を辿っての認識。あのモノローグの背景がこの曲だったか自信はない。間違いは指摘してもらえるとありがたいけどこの幻想譚に自分の幻想が重なってもさほど悪くはないかなと。

ねこんけあめ─猫ん毛雨。長崎のシーンもあり申さんの幼少期には九州で過ごした経験もあったのかな、九州地方の言葉で秋に多い霧雨を指すらしい。燈のあたらない川の燈は洋燈の燈で深海を照らす潜水艦の燈火ほどには明るいように感じるし、猫の毛ほどの細やかな雨の向こうにはかなり薄くした青空がほんのりと透けて見えるような気がする。猫の毛だからか冷えきるほどではない微かな温かみもありそう。

青年の出で立ちがいつもの申さんで、この作品はやはり申さんにとっての私小説なのだと思う。過去の経験とそれを基にした物語とそこから広がる幻想と。その幻想も申さんなのだろうし突拍子もないフィクションであってもひとりの人間のある一面の姿なのだろうと思う。

少年と少女空ちゃんがあまりにも少年と少女。少しお姉ちゃんの少女は少しお姉ちゃんの少女だし、少年は少年でまったくのくそガキ。表情から身のこなし、声に喋り方。ふたりが愛おしくてたまらない。来来来ちゃんが濡れた舞台上で転ぶ姿を2度見たけれど役とは言え転び方がどう見ても少年。理解の範疇を越える。

サントラの曲すべてがこの作品のための書き下ろし、録り下ろしとは限らない。タイトルも仮だったりするだろう。パペットの子守唄というのもよく伝わってくる。でも自分にとっては『ねこんけあめ』。

放下された少女と溝浚いのシーンは無音だったかな。自分がなかなか感想を書けなかった理由のひとつが放下された少女。ちゃんと踏み込んだ感想を書くにはどうしても外せない存在。この少女が何者なのか作中で語られているとは思うが自分の頭の中でイメージが広がり収束しない。放下された52人の胎児。ハヌルの一日だけの記憶。触媒。

魂というものが脳にあるのか、身体の外にあるのか、あるいは全ての細胞、例えばDNAに等しく備わっているのかわからない。が、生まれ変わるか次の世代に受け継がれるなどする時に全ての記憶が初期化されるのかというとそうは思わない。でないと魂が魂と呼べるものに初めてなった時の原初の魂のまま何も成長していないことになってしまう。学習能力と呼ぶべきかもしれない。いつかは失われる脳の記憶だけではなく滅びない部分に刻まれる記憶もある筈だ。脳のする詳細な記憶とは違った形で、例えば前世の記憶、両親その他先祖代々の記憶、意識のなかった時の、胎内での、前世と今世の間の…等など自覚のない記憶。そんなものも魂は持ちうるのではないか。

こんな想像をしてみる。ハヌルは生まれて間もなくどこかの川に流されていた…と。仰向けに流されるままにゴミをくぐり抜け岸にしがみつく。後にファイブレッドの人形を拾いに行き足を滑らせ川に落ちた時にまるで知らない記憶がよみがえる。初めてなのに懐かしい温度、匂い、圧力。胸に去来するのは哀しみか安堵か。地面に届いた爪先がさらに沈みこむ。ハヌルは抵抗するのを止め泥水に身体を預け、もう慌てることはない。

放下された少女には彼女自身も知らない記憶が眠っていそう。何故だがそう思える。

俳優が皆そうだというわけでもなかろうが鍛えられた喉から出る歌声が素晴らしい、溝浚い。鼻歌のように軽く歌う百鬼夜行の厚み、深み。この方も見るからに怪物的な俳優のひとり。きっとこの川の歴史と、そこから見える景色を誰よりも知っていて、この物語を誰よりも正しく把握している人物…かも。

M-3
なぜかキムチにサンチュに密造酒だと勘違いした歌詞がそのままタイトルになっていた!マッコリがサンチュだと若干健康的にはなるが。

元曲はもちろんタイトルは知らなくてもメロディは誰もが知っているトントントンカラリの『隣組』なのだけれど、アレンジはかなりド・ド・ドリフの大爆笑寄り。戦後のイメージが強かったけれど戦中からあった曲らしい。戦後の貧しくも復興に向けて近所の長屋の住民同士協力して生きていく感じと、戦中の行政の手の届かない庶民の生活─一億総動員、贅沢は敵、一億火の玉、弾に当たらずに死ぬことを許されなかった時代、相互監視の匂いを感じさせなくもない。ひたすら楽しいシーンではあるがどこかしらいたたまれなさも感じさせる。センターで踊る少女の溌剌さ。

ギター、ベースは確かプロフィールに書いてた筈だからそこは驚くことではないんだろうな。

M-4
この曲のピアノソロバージョンが1幕のどこかで流れていたのは憶えている。たぶん回想シーンの合間の青年のモノローグだったように思うが詳しくはわからない。

M-5
エル・クンバンチェロの替え歌と言っていいのかな。歌が入るとなおさらそれらしく聴こえるけどオケだけだとそれ風の別の曲にも思えてくる。この曲などで聴けるホーンセクションぽい音はどうなんだろう。サックスはお手のものだろうけどトランペットは?流石にデジタル的な何か?以前そう思って訊いたバイオリンがご自身の演奏だったので何とも。

『やっぱりカルビ』というそりゃそうだというタイトル。でもカルビにはビールだがビールにはホルモン。安価な食べ放題でホルモン頼みすぎると口が疲れてくるので要注意。ホルモンはホルモン屋で脂ダラダラ垂らして黒こげになってもなかなか網換えてもらいない…くらいがいい。

井口さんは役とご本人のギャップが最も激しかった人。今回の役のほうが素に近いのかもしれないが素がその人のベースとも限らない。表現の幅の広さと深さを同時に感じさせる人。

ぽてとさんのシーンはぜんぶ好き。井口さんとの新喜劇テイストの絡みは特に好き。申さんは新喜劇に思い入れがたっぷりありそう。

光木さんが食べていたのは本物の焼肉のように見えたけどハムか何かなのかな。日替わりネタでちまきを食べたりしていたらしい。こどもの日だと気づいていれば解ったかも。

チョゴリの女たちは眼福。2階の下着の掛けられた部屋はちょんの間か。プリンセス破天荒ことごはるの切れ味たるや。

サントラに沿っていくとどうしても抜け落ちるシーンが多々出てくる。ひろみお姉ちゃんとなつこ(…と言うのか)の恋のバカンス。上ではお宮ちゃんと少年。オクトウさんは俳優としては洋燈初登場。見るからにこの公演この舞台に上げたかった人物だとわかる。休憩中物販にまわる姿もとてもいい。水上さんは変幻自在で掴みどころのないイメージ。

M-6
ペンギンさんのシーンだろうか。個人的に死んだらその瞬間に消滅してしまいたい。どんな顔をしているのかわからない。服だって着ていないかもしれない。やつれきっているかもしれない。自分の死体を無防備に人目に曝すことは容赦し難い。だから照明のせいもあるのか真っ白で微動だにしない空ちゃんを直視するのが失礼に思えて、水を吸っている筈はないけどそう思えて、神々しくてちゃんとみんなの前に流れてくるのがいじらしくて顔をちらっと見て四肢に眼を送ってしまった。なぜかしら彼女が自らの死を肯定的に捉えているような、そんな顔だった。

𝕏にも書いたけれど大阪の溝川にバネの飛び出たベッドに乗って流れてくるならピンと身体を伸ばして立つ婚姻色のアオサギの可能性あり。

M-7
ほくろといぼじの初登場シーンか。武田さんはなぜか観るたびに成長を感じさせる。既に若手扱いされるレベルは充分に越えているだろうに、それでも成長を感じてしまうのでそう言わざるを得ない。

『ほかす』の放下すという表記はやはり当て字で『ほる(放る)』に“ そのような状態にさせておく ”といった意味合いの接尾語『~かす』を付けた言葉で、ゴミを能動的にゴミ箱などに捨てる意味に加えて、不要なものを放置しておくような意味、片付けなくて良いといった意味も含んでいるような印象を受けるがどうだろうか。『ほったらかす』とよく似ているように思う。ゴミというものがほとんど存在しなかった時代。元来は食材の不可食部くらいで、道具を使用するようになってから少しずつ増えていくも、まだ住居跡のすぐ側に貝塚が見つかることもでわかるように放置するものだった。次に使われるのを待ちながら息をし続けるゴミたち。使われない生きたゴミたち。ほとんどの有機物が土に還り、多くの鉱物が砂礫と化すほどの時を経て無人の地球が発見されたらプラスチックたちは多彩な表情で文明を説明し尽くすだろう。そして枯れ上がった溝川でかつてそこにあった水がどんなものなのかほくろが大汗かいて説明し、その横でいぼじは頷いているのだろう。

いぼじというその役名を自分は何故か無視して頭の中ではそのまま油絵博士と呼んでいた。自身の肉体もウレタンで出来ているのではないかという体躯。ウレタン製の油絵博士を演じるいぼじ?

32という数字は何なのか。蓮根の劇場もそう名付けられているが。もしやJanis Joplinの逸話みたいなもの?劇団の旗揚げを決意した時の口座の残高が32円とか?

M-8
お市の登場シーンが何ともたまらない。八百万のほとんどは自分とは関わりないかあっても影響力がないかあることに気付かないか。こんな神様がいるなら是非会いたい。溝川に沿ってあちこちでホームレスなど貧しい庶民たちと接して困りごとを解決したりしているのだろう。お市のような人間タイプの神様は食生活も人間同様で溝川ではなく人間と同じ環境で暮らすのが相応しい。人間タイプの神様が存在するならおそらくその能力を隠して(時には小出しして)人間社会に紛れ込んでいる筈。お市がそれをするにはルックス的に少々問題があったか。






M-9
これはお市が手紙を読むシーンかな。乞食は転用されて差別用語の扱いも受けるがもとは仏教用語。ここでは両方の意味を併せ持っているのだろう。現代は衣類ゴミの多さも問題になっているのでホームレスもその気になればこのような解体再構築ファッションも可能だろう。その衣装と、表情と身体の動きが楽しくてこのシーン全体台詞がなかなか頭に入らなかった。それぞれが誰なのか見分けるだけでもかなりの時間を要して最後は消去法を用いるしかなかった。

M-10、M-11
この2曲のどちらがどう使われていたのかわからないが、空ちゃん復活、あるいは再臨のシーン。乞食たち、そして放下された少女が天上を目指すように、まるで雄大な滝の岩肌を登るかのように折り重なり、その頂きに白い影。その指を口元に添え、そのまま空にかざす。青年の記憶を信じて、あの日の再現。


しかしこの1幕、どれくらいあったんだろう、1時間強…70分くらい?次から次へとシーンを変え強烈な個性の登場人物が入れ替り立ち替り。この密度、この熱量。爆発させたらピューロも消し飛ぶのでは。

M-12
これもかなり自信ないけど、イケメン部隊のシーンぽくはないので2幕の始まりのM-0的な役割?期待と不安と興味を掻き立て再び舞台に意識を全集中させるのに申し分ない。

M-13
これはおそらく隊長が全てを喪った時か。

イケメン部隊はちらっと聞いたところによると顔合わせあたりで配布されたペラペラ(は言い過ぎかもしれない)な台本に既にその草稿的なものはあったと。そこで見せたいもの訴えたいものなど早い段階で固まりつつあったのかもしれないが、荻野さんの出演は確定事項だったか、それを期待して構想されたものであることは容易に想像できる。

この舞台の出演者が発表された時、深海洋燈のファンは新品の天幕を構えての旗揚げの舞台に立っていてほしい人の名前がずらりと並んでいたことに狂喜乱舞したことだろう。なにぶんスケジュールのあることである。それなりに早い段階でこの早春くらいからのなかなかの期間をまるっと空けさせるのは並大抵のことではない。報酬や名声を確約されるようなものでもない。それをさせてしまう深海洋燈がいったいどんな団体なのか。世間一般からの知名度が極めて高い人物の集まりではない。そこに集まる俳優たちもまたしかり。他では味わえない最高の体験を得るために。この団体の力となるために。今のその先にある未来のために。なんの保証もなくそれこそ眼を輝かせて溝川に飛び込むような俳優たちの、そのそれぞれの力の集合体がいったいどれほどの夢を生み出すのか。

出演者の顔ぶれを見て様々なことを思ったが中でも荻野さんと気田さんの共演はひときわ興味を募らせた。結局絡みは少なかったがそれぞれの生み出す物語は確かに繋がっていった。次…かどうかわからないけど、銀ちゃんと…監督か誰か。

イケメン部隊は初日に呆気にとられ、3日目あたりで開眼した、これは笑える、と。男の自分にとって女性の演じるイケメンを見る時のテンションがわからなかった、が急に腹の底から地を這うような笑いが湧いてきて何かを喪うように何かを得た…ように思う。マンボにルンバにタンゴにチャチャチャ(…たぶん合ってない。サンバ?)で腰が砕けて力が入らない。

隊員の水野ちえりさんは嫌われ松子で拝見して特に印象に残ったわけでもなく蓮根で初めてお会いした時もお話できなかった。圭菜さんはスカウトするつもりがあってお誘いしたのだろうか。その場で申さんに出演の意思を伝えとんとん拍子に話が進んでいくさまを見た。ダンサーである彼女はその嫌われ松子で初の演劇デビュー、この天幕が2作目とのこと。俄には信じられないくらいの俳優ぶりで力強い声に表情に柔軟性、逆さ吊りにされた時の身の預け方…逸材。

逸材と言えばSoran君。清々しいほどまっすぐに全力。できるしやれる。ご本人にも、こんな人を輩出できる環境にも敬意と感謝。観ていて自然に涙が出る。

M-14
圭菜さんの演技と言えば売春捜査官の伝兵衛などは他の団体でも超人的な俳優を観てきたがもう役名の方を傅兵衛に変えてしまっていいくらい完璧な上に不思議なほど人間味溢れる伝兵衛で。直近の川州のキラーでも生きるためにその生命と引き換えに得たような凄味を何重にも隠して生きてそこから漏れ出るものも描いていくというこれが俳優という生き物なんだと思わせる演技。どちらも魂を丸出しにして投げつけるような圭菜さんの真骨頂。

ハヌルは小鳥の水浴とよく似た要素があって女性としてのかわいらしさを前面に出すこと。幼少期の辛い思い出を経て久々の再会。お腹にぽっかりと穴があいたような空虚感。

どれもこれも圭菜さんなんだろうなって思う。自身のパーソナリティを隠せない、というより隠す気がない。私が演じる以上私でなければ意味がない。自身の人生のひとコマとしてその役を生きるような演技。役を目一杯自分に寄せて足りない部分を自分から寄せていくような。だから嘘であっても嘘と言い切れないメンタルを作れる人なのではないか、と思えてくる。

ハヌルの感情はやはり一度人生が終わっているから穏やかで、喜びも驚きも悲しみも希望も感じた次の瞬間に手のひらからサラサラとこぼれ落ちていくように目減りしていく感がある。一度死んだ自分には手の届かないものだから。手にしてもそのうち消えてしまう身だから。そこにいるべきは自分ではないから。死ぬよりも悲しい思いをしたくないから。そんな思いをさせたくないから。

欲しいものは…
何もない

M-15
迷宮中の迷宮。お宮ちゃん。あのペンギンさんを見たちょんの間。それからどれくらいの時が経っているのかは具体的に示されてはいない。

自分で感想が書けなくて他の方が自分の言葉にならない想いを充分に表現しているのを見てこれが自分のポストだったらいいのにと何度も思ったし、同意したりなるほどなーと気づかされたり。その中のお宮ちゃんが少年─青年の母なのではという投稿も同意と気付きの塊で。母親をキーワードにするような存在だとは思ったが実の母親だとは発想しなかった。それを隠して常に付かず離れずに接しているのであれば納得しやすいし更に妄想も広がっていく。それが正解かどうかはともかく少なくともそう考える過程はあったほうがいい。

もう一度ハヌルに逢うということは、ただ懐かしさに浸ることではない。全てを受けとめ受け入れること。

そこで踊るごはるは若かりし日のお宮ちゃんか、それを投影した現在のNo.1か。夜の天幕の深海のような闇の中央を映写機の灯りのようにまばゆく映し出す燈火。その身に纏う繊維という繊維がすべて意思を持ったかのように音も立てずに滑り波打ち始める。それらが肩から外れ腰元まで露わにしてもしっとりとした絹糸のような触感を保った肌がまるで衣裳のように踊り続ける。美の多くは女性のフォルムを潜在的にも元にしていると思う。当の女性も男性の目を借りて美を測っているのではないだろう。

光木さんの役名はパンフによるとミツキ。あの焼肉を食べていたのも確かに他の人物と見間違うことはないのでミツキではあるのだろう。ちょんの間の経営者的な何者かではあってももともと同じ集落の一住民なのだろうか。どうしても湯婆婆のイメージが拭えない。なかなか高低差のある階段なのであの登り方はあながち演技とも言い切れまい。青年を吹き出させることに成功していた。おめでとう!

襦袢の女たちも素晴らしいとしか言いようがない。必要な存在かどうかというなら紛れもなく必要不可欠。このような表現の大小様々な積み重ねが作品の本体と言っても悪くない。



M-16
アンドロギュノスの失われた半身は鍵と鍵穴の関係のようなものでこれが半身に違いないと思い差し込むことに成功しても鍵穴のほうが回転に伴ってくれるのか。自分の身体の窪みをすべて埋めてくれる半身の窪みを自分が埋められるとは限らない。神が複雑に刃を滑り込ませたせいだろうし、人間は神とは違い変化する生き物だからだろう。半身でなくとも自分の窪みを概ね埋めてくれる存在は多数存在することに注意が必要。

アンドロギュノスの表現にうっとりと見惚れてしまい言葉が頭に入りにくい。

現実離れした脅威のルックスを持つ瑠花さん。このルックスに加えて豊かな内面を持ち世の中のどんな成功でも思いのままに得られそうな人がよりによって深海洋燈!?というこれ以上ない選択。完璧すぎて格好良すぎる。美しすぎるとそれ自体が意味を持ってしまうところだがさすがは深海洋燈。美しい者を美しく描き、さらにそこに整いすぎてしまっていることを自覚するキャラクターがひとつ乗せられたように思える。整いすぎなんだよっていうツッコミが受け入れられた感。美しさの解釈が深海洋燈向けにアップデートされた?感情移入を拒絶するような青い空の演技が素晴らしかったし、イケメンとしてのコミカルな芝居もとても良かった。特殊造形や天幕設営に奮闘する姿も大きな力となっただろう。いずれ深海洋燈ともども大きな成功を手にして更なる夢に向かう時、その時にはきっと誰も協力を惜しまない。どこまで行くのか見届けたい。

紗幕マジック(?)はわかっていてもドキッとする。一瞬…それこそ光速で変わるのがいい。過去にテレビで見たイリュージョン系のマジックでも使われてた?

M-17
3幕、メグさんの唄うムーンリバー。彼女の弾くピアノがメグさんの私物かと思いきや美術スタッフの手によるものらしい。こだわりが素晴らしい。

伝説の持ち主でありソフトで豊かな表現力を持つシンガーであるメグさん。その若さのみを強調して売り物にするのではなく、魔法を使わずに年齢を伴った女性の美しさやかわいらしさを見せてくれる。加齢によって加算される美を魅せてくれる存在。

幻想に包まれた物語の青年と、前説をする今現在の申さんを同じ時間軸の同一の人物と捉えるのは難しいが、メグさんがあの夢子の現在地なのだと思うとハッとしてしまう。長屋の秘密基地への隠し扉のように思えてしまう。

松田さんも時の進みをバグらせたような方ではあるが、以前、実は開演時刻および受付の開始を一時間間違えて早く劇場に入り込んでしまったことがあり、その時の無防備な松田さんがまるで若手俳優のようであり、飾らずに年齢やキャリアと無関係に座組に馴染んでいるさまを見たことがあった。必要な時に先輩としての役割を果たしつつも常に対等でありたいと自分自身も心掛けてはいるが松田さんの演じる役柄を考えると、これは嬉しいギャップだった。

コバさんはとにかく良くウケていた。万能で一瞬で観客を支配する素晴らしい俳優。

つまみさん。役が彼女に寄せられていたのか、彼女が演じるからそうなったのか、彼女自身を迷宮に誘い込むような役だったように思う。『過去の自分と決別し、違う人生を歩む』ことができるタイプではないだろう。その黒髪と同じようにバッサリと切れるものではない。迷宮に入り込んだら出口を探し決して入口から出ることを良しとしないだろう。好きか嫌いかで言うなら最も好きなタイプの俳優。

コバさんが“代弁”するよりもっと早くつまみさんが既に代弁したそうな芝居をしてみせてるところがなんとも面白い。
                                                              
M-18
これはちょっと見当がつかない。いったいどのシーンで使われていたのか。そもそもこの先の終盤のシーンについて何かを書ける気がしない。この作品に負けたなって思うのはこのあたりからで、ぐいぐいと押し込まれて思考も体力も尽き果て、眠いのに眠れず感情が昂る赤ん坊のようにただただ泣いてた。何を見ていたのか説明するのも難しいだろう。平日はほとんど進まなくて土日の空いた時間に書き進めてきたけど記憶も少しずつ曖昧になりこれ以上延ばしたところで納得する言葉は出てこないだろう。そろそろ諦めようと思う。

M-19
申さんの力強くて優しい歌声。例えが思いつかないが強いて言えば友部正人のような。きっともっと的確で伝わりやすい例えもあるのだろうけど自分が知らない。そこに圭菜さんの、もともとミュージカル俳優を目指していたということを急に思い出させる歌声。イメージするより1オクターブ高い透明な雫のような。これまでにこんなシーンあったかな。強烈な隠し玉に心が砕ける。

青年とハヌル、少年に幼き空ちゃん。放下された少女。どんな言葉も余計だろう。演じる側は体力が残っていたのだろうか。思考は残っていたのだろうか。浄化された魂が天に昇っていく。自分が生きているのかわからない。至高の時。

傘を持った史椛穂さんが揺れる。史椛穂さんが小さいのか幾分大きめな白い透明のビニール傘。いつもそうだった。大事なものを抱きかかえる時のからだの真ん中を中心にした白くて透明な薄いビニールの泡に包まれてふわふわと浮いていた。その薄い膜に触れるか触れないかのところを手と足の指先と頭と顔と背中と腰と膝と踵と、素早くゆっくりと浮遊させる。魔法にかけられた傘が描く球面は葉っぱの上で膨らむ水滴のように、シャボン玉のように、紙屑の詰まったゴミ袋のように、空を散歩する風船のように、史椛穂さんの短い腕がちょうど邪魔にならないだけの空間をつくり空気を押し込める。雨はざーざー降りではない、白く透き通ったねこんけあめ。川に浸ってまだ乾かない身体をふんわりと覆って風に舞い踊る。史椛穂さんの身体の力の通り路が静かに波打って球体が空中で弾み、また天幕に当たって角度を変える。伸ばした足の切っ先が球面を少し歪ませ反動で回転し始める。

傘を持った少女が踊る。放下された少女何を想う。放下された少女は自分が放下されていなかったことに気づいたのではないだろうか。例えそれが夢で見た放下される前の光景だったとしても。

誰かに呼ばれた気がして目を開ける。ねぇ、今なんて呼んだの?声の主を探し、満面の笑顔で溝川に潜る。

百鬼夜行。溝川のゴミたちが踊る。名前はあったのかもしれないし、なかったのかもしれないが、あなたはその名を呼ぶだろう。

M-20



心残りは申さんの青年役の回はすべて観たが山形さん、段くんの回は一度も観られなかったこと。きっと映像で観られる機会があるだろう。その日を楽しみにしたい。まだまだ自分の中でこの公演は終わらない。続きを書けると思ったらまた書きたい。