何も書けなかった。公演中は当たり障りないこと、言わずもがななことなどちょこっと書いて、あとはほんとに書けなかった。頭まっしろで面白い楽しいかっこいいかわいいで埋め尽くされてブルース・リーじゃないけど感じることに精一杯で考える余地すらなくて。自分の脳の限界を覚った。都合5回観劇したけど5回では鑑賞し尽くせない。作品に負けて置いていかれた感じ。観劇でここまで疲労しきったことはない。


公演が終わり1日置いてサントラを聴く。少し冷静さを取り戻したところに劇中そのままの音源を注いで頭の中でちょっとだけ空気が動いた。できたスペースに言葉を浮かべてみる。今なら何か書けるかもしれない。文章を組み立てるのは難しいけどサントラに沿ってなら言葉を並べることができるかもしれない。




M-1 (…とそれらしく表記。実際の音響台本?通りではないだろうけど)
胎児は母の心がわかるのだろうか。胎児は生まれたいと思うのか。自殺できるのか。希望を知っているのか。その眼差しに何を刻み込むのか。

公演中の平日にうっかり『ゴミたちの葬列・百鬼夜行』を聴いてしまい、直ぐに多摩に向かいたい気持ちに苛まれる。今日の自分がこれまでの自分の集大成的な意味合いでか自分の人生の目的地のようにすら思えたこの公演のために有休も取れない状況が腹立たしくて嘆かわしくていったい何をしているのかと大きくへこむ。

それと同程度に今、何を強いられるわけでもないのにただ座っていることを許されない思い。スモークとともにあのプールの奥、骨組みの向こうにちらりと見える白い肉塊?自分自身のこの公演に向けた想いも堰を切って流れ出す。申さんがずっと語っていた深海洋燈の夢。叶わないのが夢だと思って生きてきた自分にとって眩しすぎて、その光の陰の泥まみれの手型がさらにまばゆい。(おそらく)見るに耐えないほどに見切り発車で、ただその瞬間に舞台に立っていてほしい役者たちを集めて、どんなシーンのどんな役を演じてもらうかも決まらないまま、とにかくこの仲間と一緒ならと使い果たしては持ち寄り継ぎ足して突き進んだ座組。その深海洋燈と役者それぞれの生きてきた全てをまとめて叩きつけたようなそんなオープニング。とにかく立ち上がれと言われているようでふらふらと両足を踏ん張り、でも為すべきことも見つからず溝川から鼻から上だけ出してまずこの光景を眺めよう、感じよう。この溝川に堆積した泥に爪先立ちしているのが自分だ。十月十日何を聞き何を思ったのか。引き摺り出され何を思い溝川に流され何を思う。這い上がったその先に何を見たのか。

そして少女は溝川から産まれた。

まるで雷が落ちるような身を躱したくなるような心臓が痛くなるような音と、硬い弦を弾くような…バイオリンのピチカート?のメロディが印象的。

M-2
聴いた瞬間に浮かんだのがねこんけあめの曲だと。どの曲がどこで使われたのかはっきりと覚えていないので間違いもあるだろうけれど瞬間的に、あるいは記憶を辿っての認識。あのモノローグの背景がこの曲だったか自信はない。間違いは指摘してもらえるとありがたいけどこの幻想譚に自分の幻想が重なってもさほど悪くはないかなと。

ねこんけあめ─猫ん毛雨。長崎のシーンもあり申さんの幼少期には九州で過ごした経験もあったのかな、九州地方の言葉で秋に多い霧雨を指すらしい。燈のあたらない川の燈は洋燈の燈で深海を照らす潜水艦の燈火ほどには明るいように感じるし、猫の毛ほどの細やかな雨の向こうにはかなり薄くした青空がほんのりと透けて見えるような気がする。猫の毛だからか冷えきるほどではない微かな温かみもありそう。

青年の出で立ちがいつもの申さんで、この作品はやはり申さんにとっての私小説なのだと思う。過去の経験とそれを基にした物語とそこから広がる幻想と。その幻想も申さんなのだろうし突拍子もないフィクションであってもひとりの人間のある一面の姿なのだろうと思う。

少年と少女空ちゃんがあまりにも少年と少女。少しお姉ちゃんの少女は少しお姉ちゃんの少女だし、少年は少年でまったくのくそガキ。表情から身のこなし、声に喋り方。ふたりが愛おしくてたまらない。来来来ちゃんが濡れた舞台上で転ぶ姿を2度見たけれど役とは言え転び方がどう見ても少年。理解の範疇を越える。

サントラの曲すべてがこの作品のための書き下ろし、録り下ろしとは限らない。タイトルも仮だったりするだろう。パペットの子守唄というのもよく伝わってくる。でも自分にとっては『ねこんけあめ』。

放下された少女と溝浚いのシーンは無音だったかな。自分がなかなか感想を書けなかった理由のひとつが放下された少女。ちゃんと踏み込んだ感想を書くにはどうしても外せない存在。この少女が何者なのか作中で語られているとは思うが自分の頭の中でイメージが広がり収束しない。放下された52人の胎児。ハヌルの一日だけの記憶。触媒。

魂というものが脳にあるのか、身体の外にあるのか、あるいは全ての細胞、例えばDNAに等しく備わっているのかわからない。が、生まれ変わるか次の世代に受け継がれるなどする時に全ての記憶が初期化されるのかというとそうは思わない。でないと魂が魂と呼べるものに初めてなった時の原初の魂のまま何も成長していないことになってしまう。学習能力と呼ぶべきかもしれない。いつかは失われる脳の記憶だけではなく滅びない部分に刻まれる記憶もある筈だ。脳のする詳細な記憶とは違った形で、例えば前世の記憶、両親その他先祖代々の記憶、意識のなかった時の、胎内での、前世と今世の間の…等など自覚のない記憶。そんなものも魂は持ちうるのではないか。

こんな想像をしてみる。ハヌルは生まれて間もなくどこかの川に流されていた…と。仰向けに流されるままにゴミをくぐり抜け岸にしがみつく。後にファイブレッドの人形を拾いに行き足を滑らせ川に落ちた時にまるで知らない記憶がよみがえる。初めてなのに懐かしい温度、匂い、圧力。胸に去来するのは哀しみか安堵か。地面に届いた爪先がさらに沈みこむ。ハヌルは抵抗するのを止め泥水に身体を預け、もう慌てることはない。

放下された少女には彼女自身も知らない記憶が眠っていそう。何故だがそう思える。

俳優が皆そうだというわけでもなかろうが鍛えられた喉から出る歌声が素晴らしい、溝浚い。鼻歌のように軽く歌う百鬼夜行の厚み、深み。この方も見るからに怪物的な俳優のひとり。きっとこの川の歴史と、そこから見える景色を誰よりも知っていて、この物語を誰よりも正しく把握している人物…かも。

M-3
なぜかキムチにサンチュに密造酒だと勘違いした歌詞がそのままタイトルになっていた!マッコリがサンチュだと若干健康的にはなるが。

元曲はもちろんタイトルは知らなくてもメロディは誰もが知っているトントントンカラリの『隣組』なのだけれど、アレンジはかなりド・ド・ドリフの大爆笑寄り。戦後のイメージが強かったけれど戦中からあった曲らしい。戦後の貧しくも復興に向けて近所の長屋の住民同士協力して生きていく感じと、戦中の行政の手の届かない庶民の生活─一億総動員、贅沢は敵、一億火の玉、弾に当たらずに死ぬことを許されなかった時代、相互監視の匂いを感じさせなくもない。ひたすら楽しいシーンではあるがどこかしらいたたまれなさも感じさせる。センターで踊る少女の溌剌さ。

ギター、ベースは確かプロフィールに書いてた筈だからそこは驚くことではないんだろうな。

M-4
この曲のピアノソロバージョンが1幕のどこかで流れていたのは憶えている。たぶん回想シーンの合間の青年のモノローグだったように思うが詳しくはわからない。

M-5
エル・クンバンチェロの替え歌と言っていいのかな。歌が入るとなおさらそれらしく聴こえるけどオケだけだとそれ風の別の曲にも思えてくる。この曲などで聴けるホーンセクションぽい音はどうなんだろう。サックスはお手のものだろうけどトランペットは?流石にデジタル的な何か?以前そう思って訊いたバイオリンがご自身の演奏だったので何とも。

『やっぱりカルビ』というそりゃそうだというタイトル。でもカルビにはビールだがビールにはホルモン。安価な食べ放題でホルモン頼みすぎると口が疲れてくるので要注意。ホルモンはホルモン屋で脂ダラダラ垂らして黒こげになってもなかなか網換えてもらいない…くらいがいい。

井口さんは役とご本人のギャップが最も激しかった人。今回の役のほうが素に近いのかもしれないが素がその人のベースとも限らない。表現の幅の広さと深さを同時に感じさせる人。

ぽてとさんのシーンはぜんぶ好き。井口さんとの新喜劇テイストの絡みは特に好き。申さんは新喜劇に思い入れがたっぷりありそう。

光木さんが食べていたのは本物の焼肉のように見えたけどハムか何かなのかな。日替わりネタでちまきを食べたりしていたらしい。こどもの日だと気づいていれば解ったかも。

チョゴリの女たちは眼福。2階の下着の掛けられた部屋はちょんの間か。プリンセス破天荒ことごはるの切れ味たるや。

サントラに沿っていくとどうしても抜け落ちるシーンが多々出てくる。ひろみお姉ちゃんとなつこ(…と言うのか)の恋のバカンス。上ではお宮ちゃんと少年。オクトウさんは俳優としては洋燈初登場。見るからにこの公演この舞台に上げたかった人物だとわかる。休憩中物販にまわる姿もとてもいい。水上さんは変幻自在で掴みどころのないイメージ。

M-6
ペンギンさんのシーンだろうか。個人的に死んだらその瞬間に消滅してしまいたい。どんな顔をしているのかわからない。服だって着ていないかもしれない。やつれきっているかもしれない。自分の死体を無防備に人目に曝すことは容赦し難い。だから照明のせいもあるのか真っ白で微動だにしない空ちゃんを直視するのが失礼に思えて、水を吸っている筈はないけどそう思えて、神々しくてちゃんとみんなの前に流れてくるのがいじらしくて顔をちらっと見て四肢に眼を送ってしまった。なぜかしら彼女が自らの死を肯定的に捉えているような、そんな顔だった。

𝕏にも書いたけれど大阪の溝川にバネの飛び出たベッドに乗って流れてくるならピンと身体を伸ばして立つ婚姻色のアオサギの可能性あり。

M-7
ほくろといぼじの初登場シーンか。武田さんはなぜか観るたびに成長を感じさせる。既に若手扱いされるレベルは充分に越えているだろうに、それでも成長を感じてしまうのでそう言わざるを得ない。

『ほかす』の放下すという表記はやはり当て字で『ほる(放る)』に“ そのような状態にさせておく ”といった意味合いの接尾語『~かす』を付けた言葉で、ゴミを能動的にゴミ箱などに捨てる意味に加えて、不要なものを放置しておくような意味、片付けなくて良いといった意味も含んでいるような印象を受けるがどうだろうか。『ほったらかす』とよく似ているように思う。ゴミというものがほとんど存在しなかった時代。元来は食材の不可食部くらいで、道具を使用するようになってから少しずつ増えていくも、まだ住居跡のすぐ側に貝塚が見つかることもでわかるように放置するものだった。次に使われるのを待ちながら息をし続けるゴミたち。使われない生きたゴミたち。ほとんどの有機物が土に還り、多くの鉱物が砂礫と化すほどの時を経て無人の地球が発見されたらプラスチックたちは多彩な表情で文明を説明し尽くすだろう。そして枯れ上がった溝川でかつてそこにあった水がどんなものなのかほくろが大汗かいて説明し、その横でいぼじは頷いているのだろう。

いぼじというその役名を自分は何故か無視して頭の中ではそのまま油絵博士と呼んでいた。自身の肉体もウレタンで出来ているのではないかという体躯。ウレタン製の油絵博士を演じるいぼじ?

32という数字は何なのか。蓮根の劇場もそう名付けられているが。もしやJanis Joplinの逸話みたいなもの?劇団の旗揚げを決意した時の口座の残高が32円とか?

M-8
お市の登場シーンが何ともたまらない。八百万のほとんどは自分とは関わりないかあっても影響力がないかあることに気付かないか。こんな神様がいるなら是非会いたい。溝川に沿ってあちこちでホームレスなど貧しい庶民たちと接して困りごとを解決したりしているのだろう。お市のような人間タイプの神様は食生活も人間同様で溝川ではなく人間と同じ環境で暮らすのが相応しい。人間タイプの神様が存在するならおそらくその能力を隠して(時には小出しして)人間社会に紛れ込んでいる筈。お市がそれをするにはルックス的に少々問題があったか。






M-9
これはお市が手紙を読むシーンかな。乞食は転用されて差別用語の扱いも受けるがもとは仏教用語。ここでは両方の意味を併せ持っているのだろう。現代は衣類ゴミの多さも問題になっているのでホームレスもその気になればこのような解体再構築ファッションも可能だろう。その衣装と、表情と身体の動きが楽しくてこのシーン全体台詞がなかなか頭に入らなかった。それぞれが誰なのか見分けるだけでもかなりの時間を要して最後は消去法を用いるしかなかった。

M-10、M-11
この2曲のどちらがどう使われていたのかわからないが、空ちゃん復活、あるいは再臨のシーン。乞食たち、そして放下された少女が天上を目指すように、まるで雄大な滝の岩肌を登るかのように折り重なり、その頂きに白い影。その指を口元に添え、そのまま空にかざす。青年の記憶を信じて、あの日の再現。


しかしこの1幕、どれくらいあったんだろう、1時間強…70分くらい?次から次へとシーンを変え強烈な個性の登場人物が入れ替り立ち替り。この密度、この熱量。爆発させたらピューロも消し飛ぶのでは。

M-12
これもかなり自信ないけど、イケメン部隊のシーンぽくはないので2幕の始まりのM-0的な役割?期待と不安と興味を掻き立て再び舞台に意識を全集中させるのに申し分ない。

M-13
これはおそらく隊長が全てを喪った時か。

イケメン部隊はちらっと聞いたところによると顔合わせあたりで配布されたペラペラ(は言い過ぎかもしれない)な台本に既にその草稿的なものはあったと。そこで見せたいもの訴えたいものなど早い段階で固まりつつあったのかもしれないが、荻野さんの出演は確定事項だったか、それを期待して構想されたものであることは容易に想像できる。

この舞台の出演者が発表された時、深海洋燈のファンは新品の天幕を構えての旗揚げの舞台に立っていてほしい人の名前がずらりと並んでいたことに狂喜乱舞したことだろう。なにぶんスケジュールのあることである。それなりに早い段階でこの早春くらいからのなかなかの期間をまるっと空けさせるのは並大抵のことではない。報酬や名声を確約されるようなものでもない。それをさせてしまう深海洋燈がいったいどんな団体なのか。世間一般からの知名度が極めて高い人物の集まりではない。そこに集まる俳優たちもまたしかり。他では味わえない最高の体験を得るために。この団体の力となるために。今のその先にある未来のために。なんの保証もなくそれこそ眼を輝かせて溝川に飛び込むような俳優たちの、そのそれぞれの力の集合体がいったいどれほどの夢を生み出すのか。

出演者の顔ぶれを見て様々なことを思ったが中でも荻野さんと気田さんの共演はひときわ興味を募らせた。結局絡みは少なかったがそれぞれの生み出す物語は確かに繋がっていった。次…かどうかわからないけど、銀ちゃんと…監督か誰か。

イケメン部隊は初日に呆気にとられ、3日目あたりで開眼した、これは笑える、と。男の自分にとって女性の演じるイケメンを見る時のテンションがわからなかった、が急に腹の底から地を這うような笑いが湧いてきて何かを喪うように何かを得た…ように思う。マンボにルンバにタンゴにチャチャチャ(…たぶん合ってない。サンバ?)で腰が砕けて力が入らない。

隊員の水野ちえりさんは嫌われ松子で拝見して特に印象に残ったわけでもなく蓮根で初めてお会いした時もお話できなかった。圭菜さんはスカウトするつもりがあってお誘いしたのだろうか。その場で申さんに出演の意思を伝えとんとん拍子に話が進んでいくさまを見た。ダンサーである彼女はその嫌われ松子で初の演劇デビュー、この天幕が2作目とのこと。俄には信じられないくらいの俳優ぶりで力強い声に表情に柔軟性、逆さ吊りにされた時の身の預け方…逸材。

逸材と言えばSoran君。清々しいほどまっすぐに全力。できるしやれる。ご本人にも、こんな人を輩出できる環境にも敬意と感謝。観ていて自然に涙が出る。

M-14
圭菜さんの演技と言えば売春捜査官の伝兵衛などは他の団体でも超人的な俳優を観てきたがもう役名の方を傅兵衛に変えてしまっていいくらい完璧な上に不思議なほど人間味溢れる伝兵衛で。直近の川州のキラーでも生きるためにその生命と引き換えに得たような凄味を何重にも隠して生きてそこから漏れ出るものも描いていくというこれが俳優という生き物なんだと思わせる演技。どちらも魂を丸出しにして投げつけるような圭菜さんの真骨頂。

ハヌルは小鳥の水浴とよく似た要素があって女性としてのかわいらしさを前面に出すこと。幼少期の辛い思い出を経て久々の再会。お腹にぽっかりと穴があいたような空虚感。

どれもこれも圭菜さんなんだろうなって思う。自身のパーソナリティを隠せない、というより隠す気がない。私が演じる以上私でなければ意味がない。自身の人生のひとコマとしてその役を生きるような演技。役を目一杯自分に寄せて足りない部分を自分から寄せていくような。だから嘘であっても嘘と言い切れないメンタルを作れる人なのではないか、と思えてくる。

ハヌルの感情はやはり一度人生が終わっているから穏やかで、喜びも驚きも悲しみも希望も感じた次の瞬間に手のひらからサラサラとこぼれ落ちていくように目減りしていく感がある。一度死んだ自分には手の届かないものだから。手にしてもそのうち消えてしまう身だから。そこにいるべきは自分ではないから。死ぬよりも悲しい思いをしたくないから。そんな思いをさせたくないから。

欲しいものは…
何もない

M-15
迷宮中の迷宮。お宮ちゃん。あのペンギンさんを見たちょんの間。それからどれくらいの時が経っているのかは具体的に示されてはいない。

自分で感想が書けなくて他の方が自分の言葉にならない想いを充分に表現しているのを見てこれが自分のポストだったらいいのにと何度も思ったし、同意したりなるほどなーと気づかされたり。その中のお宮ちゃんが少年─青年の母なのではという投稿も同意と気付きの塊で。母親をキーワードにするような存在だとは思ったが実の母親だとは発想しなかった。それを隠して常に付かず離れずに接しているのであれば納得しやすいし更に妄想も広がっていく。それが正解かどうかはともかく少なくともそう考える過程はあったほうがいい。

もう一度ハヌルに逢うということは、ただ懐かしさに浸ることではない。全てを受けとめ受け入れること。

そこで踊るごはるは若かりし日のお宮ちゃんか、それを投影した現在のNo.1か。夜の天幕の深海のような闇の中央を映写機の灯りのようにまばゆく映し出す燈火。その身に纏う繊維という繊維がすべて意思を持ったかのように音も立てずに滑り波打ち始める。それらが肩から外れ腰元まで露わにしてもしっとりとした絹糸のような触感を保った肌がまるで衣裳のように踊り続ける。美の多くは女性のフォルムを潜在的にも元にしていると思う。当の女性も男性の目を借りて美を測っているのではないだろう。

光木さんの役名はパンフによるとミツキ。あの焼肉を食べていたのも確かに他の人物と見間違うことはないのでミツキではあるのだろう。ちょんの間の経営者的な何者かではあってももともと同じ集落の一住民なのだろうか。どうしても湯婆婆のイメージが拭えない。なかなか高低差のある階段なのであの登り方はあながち演技とも言い切れまい。青年を吹き出させることに成功していた。おめでとう!

襦袢の女たちも素晴らしいとしか言いようがない。必要な存在かどうかというなら紛れもなく必要不可欠。このような表現の大小様々な積み重ねが作品の本体と言っても悪くない。



M-16
アンドロギュノスの失われた半身は鍵と鍵穴の関係のようなものでこれが半身に違いないと思い差し込むことに成功しても鍵穴のほうが回転に伴ってくれるのか。自分の身体の窪みをすべて埋めてくれる半身の窪みを自分が埋められるとは限らない。神が複雑に刃を滑り込ませたせいだろうし、人間は神とは違い変化する生き物だからだろう。半身でなくとも自分の窪みを概ね埋めてくれる存在は多数存在することに注意が必要。

アンドロギュノスの表現にうっとりと見惚れてしまい言葉が頭に入りにくい。

現実離れした脅威のルックスを持つ瑠花さん。このルックスに加えて豊かな内面を持ち世の中のどんな成功でも思いのままに得られそうな人がよりによって深海洋燈!?というこれ以上ない選択。完璧すぎて格好良すぎる。美しすぎるとそれ自体が意味を持ってしまうところだがさすがは深海洋燈。美しい者を美しく描き、さらにそこに整いすぎてしまっていることを自覚するキャラクターがひとつ乗せられたように思える。整いすぎなんだよっていうツッコミが受け入れられた感。美しさの解釈が深海洋燈向けにアップデートされた?感情移入を拒絶するような青い空の演技が素晴らしかったし、イケメンとしてのコミカルな芝居もとても良かった。特殊造形や天幕設営に奮闘する姿も大きな力となっただろう。いずれ深海洋燈ともども大きな成功を手にして更なる夢に向かう時、その時にはきっと誰も協力を惜しまない。どこまで行くのか見届けたい。

紗幕マジック(?)はわかっていてもドキッとする。一瞬…それこそ光速で変わるのがいい。過去にテレビで見たイリュージョン系のマジックでも使われてた?

M-17
3幕、メグさんの唄うムーンリバー。彼女の弾くピアノがメグさんの私物かと思いきや美術スタッフの手によるものらしい。こだわりが素晴らしい。

伝説の持ち主でありソフトで豊かな表現力を持つシンガーであるメグさん。その若さのみを強調して売り物にするのではなく、魔法を使わずに年齢を伴った女性の美しさやかわいらしさを見せてくれる。加齢によって加算される美を魅せてくれる存在。

幻想に包まれた物語の青年と、前説をする今現在の申さんを同じ時間軸の同一の人物と捉えるのは難しいが、メグさんがあの夢子の現在地なのだと思うとハッとしてしまう。長屋の秘密基地への隠し扉のように思えてしまう。

松田さんも時の進みをバグらせたような方ではあるが、以前、実は開演時刻および受付の開始を一時間間違えて早く劇場に入り込んでしまったことがあり、その時の無防備な松田さんがまるで若手俳優のようであり、飾らずに年齢やキャリアと無関係に座組に馴染んでいるさまを見たことがあった。必要な時に先輩としての役割を果たしつつも常に対等でありたいと自分自身も心掛けてはいるが松田さんの演じる役柄を考えると、これは嬉しいギャップだった。

コバさんはとにかく良くウケていた。万能で一瞬で観客を支配する素晴らしい俳優。

つまみさん。役が彼女に寄せられていたのか、彼女が演じるからそうなったのか、彼女自身を迷宮に誘い込むような役だったように思う。『過去の自分と決別し、違う人生を歩む』ことができるタイプではないだろう。その黒髪と同じようにバッサリと切れるものではない。迷宮に入り込んだら出口を探し決して入口から出ることを良しとしないだろう。好きか嫌いかで言うなら最も好きなタイプの俳優。

コバさんが“代弁”するよりもっと早くつまみさんが既に代弁したそうな芝居をしてみせてるところがなんとも面白い。
                                                              
M-18
これはちょっと見当がつかない。いったいどのシーンで使われていたのか。そもそもこの先の終盤のシーンについて何かを書ける気がしない。この作品に負けたなって思うのはこのあたりからで、ぐいぐいと押し込まれて思考も体力も尽き果て、眠いのに眠れず感情が昂る赤ん坊のようにただただ泣いてた。何を見ていたのか説明するのも難しいだろう。平日はほとんど進まなくて土日の空いた時間に書き進めてきたけど記憶も少しずつ曖昧になりこれ以上延ばしたところで納得する言葉は出てこないだろう。そろそろ諦めようと思う。

M-19
申さんの力強くて優しい歌声。例えが思いつかないが強いて言えば友部正人のような。きっともっと的確で伝わりやすい例えもあるのだろうけど自分が知らない。そこに圭菜さんの、もともとミュージカル俳優を目指していたということを急に思い出させる歌声。イメージするより1オクターブ高い透明な雫のような。これまでにこんなシーンあったかな。強烈な隠し玉に心が砕ける。

青年とハヌル、少年に幼き空ちゃん。放下された少女。どんな言葉も余計だろう。演じる側は体力が残っていたのだろうか。思考は残っていたのだろうか。浄化された魂が天に昇っていく。自分が生きているのかわからない。至高の時。

傘を持った史椛穂さんが揺れる。史椛穂さんが小さいのか幾分大きめな白い透明のビニール傘。いつもそうだった。大事なものを抱きかかえる時のからだの真ん中を中心にした白くて透明な薄いビニールの泡に包まれてふわふわと浮いていた。その薄い膜に触れるか触れないかのところを手と足の指先と頭と顔と背中と腰と膝と踵と、素早くゆっくりと浮遊させる。魔法にかけられた傘が描く球面は葉っぱの上で膨らむ水滴のように、シャボン玉のように、紙屑の詰まったゴミ袋のように、空を散歩する風船のように、史椛穂さんの短い腕がちょうど邪魔にならないだけの空間をつくり空気を押し込める。雨はざーざー降りではない、白く透き通ったねこんけあめ。川に浸ってまだ乾かない身体をふんわりと覆って風に舞い踊る。史椛穂さんの身体の力の通り路が静かに波打って球体が空中で弾み、また天幕に当たって角度を変える。伸ばした足の切っ先が球面を少し歪ませ反動で回転し始める。

傘を持った少女が踊る。放下された少女何を想う。放下された少女は自分が放下されていなかったことに気づいたのではないだろうか。例えそれが夢で見た放下される前の光景だったとしても。

誰かに呼ばれた気がして目を開ける。ねぇ、今なんて呼んだの?声の主を探し、満面の笑顔で溝川に潜る。

百鬼夜行。溝川のゴミたちが踊る。名前はあったのかもしれないし、なかったのかもしれないが、あなたはその名を呼ぶだろう。

M-20



心残りは申さんの青年役の回はすべて観たが山形さん、段くんの回は一度も観られなかったこと。きっと映像で観られる機会があるだろう。その日を楽しみにしたい。まだまだ自分の中でこの公演は終わらない。続きを書けると思ったらまた書きたい。

咲いていたのは彼岸花だったのだろうか。もう少し日が経つとこれがもっと細かいうろこ雲になるんだろうなっていう空。紗を通したような柔らかなサンドベージュの日差し。まっすぐに立ち昇る細い煙(これは昔のイメージだな)。今まで観た月ノミの中でいちばん穏やかで、生きる喜びを感じさせてくれた回。死を描くことで生を浮かび上がらせるってところの生のウェイトがとっても大きい。生と死の境い目がなくなったかのような日常の中の死。陽だまりの中で午睡しながら、そっか、今ここでこのまま死んじゃえばいいんだよね、いつまでも目が覚めなきゃいいな、こうやってまどろんでいる内にいつの間にか逝ってたらまぁ、良くはないけど嫌じゃないな、なんて。本気で死にたいなんて思ったことないけどその時が来たらそんなふうに自然に平常心で去って行って平常心で見送ってもらえたらいいね。夜中から煮物作っちゃったりして(これも古いイメージですね)味見してあら美味しいなんて独りごと言っちゃったり。忙しさで気を紛らわそうとか思いつつも喜怒哀楽が程よいバランスで並んでてそんなに嫌な気分でもなくって。選択肢があれば全部安いほうで。とにかくこじんまりとってあの人皆に言ってたから話もスムーズで助かるわなんて。斎場を借りずにいつものままのそのままの自宅にちっちゃな祭壇ぽつんと置いてっていうのが逆に演出効かせすぎでちょっと気に入らないけどまぁ良し。泣かないでって言われたけど普通に泣きたくなれば普通に泣こうと思う。そんな感じ。悲しくないとは言わない。悲しい死だってある。でもそれが自然なものであるならそのゴールを祝ってあげたい。ひとつの舞台の終演には拍手を送りたい。


自分の昔の話。父が倒れて意識が戻らないままいわゆる延命措置(その頃はそれをしない選択を口にする人はあまりいなかったように思います)を続ける中で、ウチは家族親戚一同ある宗教団体の会員で自分はずっとそこから逃げていたのだけど、回復を願って祈り続ける家族たちを見るとやっぱりその人たちのためにね、その思いを見捨てることができずに祈りました。まず回復は見込めない中で父の回復よりも家族の心のためにその様式に則って祈りました。祈っているような姿を見せました。自分の尊厳に関わることなので簡単なことではなかったです。その宗教の不思議な力で一人の弱い人間の心を変えた…みたいな感じでその団体内で美談的に評価されたと思います。で、葬儀が終わってすぐにやめてしまったので後々あれは何だったんだろうねって感想のような質問のようなことを言われて。でもネタバラシする気はないです。次の機会に同じことができるかというとその自信はないのでどうはぐらかすか…その時まで考えないようにしています。


この話を続けるとかなり長くなるので9割カットしますが…実のところ父は本気でその宗教を信じてはいなかっただろうと思っています。どちらかと言うと無口で、その宗教団体での活動に対して消極的で、ろくに仕事もせずに釣りにばかり行っていた父と、親戚家族一同を入信させ、事業を立ち上げて家計を支えた母。本気で祈ればすべてが良い方に向かうのに自身の心の中の魔に負けてそれができない父という構図にガチガチに嵌められて家庭内でも批判されがちでやや孤立していた父のその目線に立ってみるとやはり肩身が狭く、川に居場所を求めたのも無理からぬ話。熱心な活動はできないけれど反対もしないしちゃんと入信もする。どんな気持ちだったにせよ他の選択肢はなかったでしょう。一般的には宗教にズブズブに嵌っていく妻とその目を覚まさせようとする夫…のはずなのにね。


だから唯一味方になれるはずの自分が、意識がまるでないのか行動はできないものの多少の意識はあるのか判別のつかない父の前でそれを裏切る形で宗教的な活動をしていいものなのか悩みました。結局父ではなく残される側(主に母)の想いを尊重した訳ですがその判断を父がどう思っているのか。心の優しい父なので自分の本心をわかってくれていれば苦笑いしながらそれでいいよ。あいつを喜ばせてやってくれって言ってくれそうな気はします。父も同じことをしたんじゃないかなって気づいたときに少し心が軽くなりました。


では自分が死ぬときには周りの人たちに何ができるのか。今までありがとう的なことはやっぱり言うんだろうけど。まぁ正直なところ大したことはできまい。まずは老後の身の回りの世話をかけさせないように施設に入るとかは考えたい。大事なのは罪悪感を持たせないように自分の意志をはっきりと納得してもらえるまで説明すること…かな。なんのしこりも残さず晴れがましく送ってもらいたいですから。でも本音を言えば自分の意志で何か意味のある最期を遂げたい。それはもうチャンス次第。悲しみはあってもいい。それ以上の喜びがあればいいですね。なるべく誰も困らせずに。日常の中の誇らしい日であれたら。


斉藤稚紗冬さん。ちーちゃん。しなやかで肌理細やかでちゃんとゴツゴツしてる木の枝のよう。テーブルとか椅子とかあればそれがどんなに小さくてもとりあえず潜る。立ち上がって頭に乗せたりする。ひとを持ち上げたり背中に乗せたりする。史椛穂さんを肩車したときは1曲分そのまま歩いたり回転したり。あれがどれだけハードな全身運動か。すっごい力持ち。いつも目がなくなるくらいニコニコしてる。多分挑発的な態度を顔で表現するとかはそんなに上手くないと思う。だからか“雌”になったときはメイクが濃かった。今回は3人とも比較的ナチュラル気味。ちーちゃんの優しくって明日がいい日になるんじゃないかって感じさせてくれるような顔がそのまま生きる演目でした。ちーちゃんは長い手足をぶんぶん振り回して劇場のそれほど高くはない天井にいろいろ吊ってある装飾にまあまあぶつかる。だからといってどうなるわけでもなく自然に踊っているので徐々にその圧迫感が消えてくる。いつか階段で踊った時には手を横に広げると壁に当たるという注意点に気付いたらしく備忘録的にそれを記していたくらいなので彼女にとって壁や天井を気にするという感覚はあまりないのだろう。とても繊細な表現力を持っていると同時にひどく野性的で、産まれたばかりの赤ちゃんのような無垢な爛漫さと、手垢に塗れても袖でぬぐって笑っていられそうなたくましさが同居していて汚したくないけど汚しても大丈夫そうな安心感があって。こんなに好きだって素直に言えてしまう人もなかなかいない。理想のダンサー像…という言葉は聞いたことないけど許されるならそう呼びたい。踊っている自分を見せるという意思をあまり感じない。ただただ表現がそこにある。感覚で踊れるひとなんだと思う。あの掌で空を掴み取ってそこから何か貰って踴っているんじゃないかと思えてくる。ちっちゃな子供が感情を伝えきれなくて全身をバタバタさせるその延長みたいにも見える。だから…なのか、でも…なのか、そのダンスだけではなく彼女のことまで好きになる。ダンサーさんの人柄とか人間的な魅力というのがその表現にどれほど影響するのか、俳優さんほどには語られていないような気がするけど、彼女に接した時に感じる想いは彼女が踊っているのを見た時にすでに受け取っていたものと同じものだとすぐに気付く。


彼女が無口なのは言葉にできないことを身体で表現しているから。史椛穂さんの言った口よりも饒舌な身体という言葉がこの上なく彼女のことを表している。表現の前後などは心から言葉、言葉から口へと繋ぐ回路がどこかに行ってしまっているのだろう。彼女の表現を言葉に翻訳することはできないけれどちーちゃんたちが舞台上で身体で交わす会話を見るのはとてつもなく楽しくて幸せなこと。だって『祈りの肖像』を踊るちーちゃんを見たら誰だって幸せになりますよね。それに尽きる。


今回の公演、前日まで行われていた公演のセットのベースの部分をそのまま残して活用するという、舞台芸術では極めて稀(ですよね!)なかたちで行われました。いつもとは違った雰囲気がありました。舞台のまわりを水で囲んでいたり大きな月が輝いたり洋風にリメイクした着物がたくさん掛かっていたり…。とても豪華なところに更にいろいろ詰め込んでいつもの月ノミのアイテム(新聞紙が布製に変わっていたりしたけれど)も取り入れて。結果、抽象性も月ノミらしさも維持したまま雑多で重厚感溢れる素晴らしい環境に仕上がってました。当然月ノミのために用意されたものではないのでどうアレンジするかというところで、余計なものを取っぱらうのではなく逆にぎゅうぎゅうに詰め込むことでそれぞれのアイテムの具体的なイメージを分散させフラットな背景を作ってしまう。出番ではない出演者がそれらの中のちょっとした隙間に入ってオブジェのように溶け込むのが面白かった。水路に史椛穂さんが早々と新聞紙の紙吹雪を大量にぶちまけて、それが3人の綺麗な足(本当に綺麗!)に落ち葉のようにへばりつく。きっと意図通りではないのだろうけど無機的で抽象的なイメージから落葉樹が覆い被さる流れの停滞した池のような川のような光景に変わっていったのも即興ならでは。


はじめましてのmeguさん。とても綺麗。シャープな容貌もそうだけど踊っている姿がとにかく綺麗。ド素人の目にはこう見えたっていう感想なので的外れだったりするところもあるかも知れないけど…筋肉の付き方が綺麗なので力の入ってる部分のフォルムが綺麗。漢字で言うところのとめ・はね・はらいが綺麗。ジャズの中にコンテンポラリーの情感、コンテンポラリーの中にジャズのダイナミックな動き。よく考えているなっていう印象…動画を見て感じたことも含めて。好きなことに全力で打ち込んでる感じが素敵。どれくらいの時間をダンスに注いでいるのだろう。その先に何を見据えているのか。どんな未来を思い描いているのか。


ジャズの人って先入観を勝手に持っていたのでどうやって月ノミの世界に入っていくのかっていう期待と少しの不安…それは全くの杞憂で、まずジャズ一辺倒のダンサーではないし、技術だけでどうにかしようなんて思うタイプでもない。積み重ねたものが綺麗に整理されている。そしてその棚がいっぱいになって置ききれなくなった頃には重みで潰れて彼女だけの踊りへと変わっていくのだろう。きっと進化し続けていく。現在の姿から想像しやすい形だけで終わるとは思わない。


『月をノミマショウ』…毎月作品を作って劇場で公演を打つのは生半可なことではない。出演者が顔を合わせられる時間は想像以上に少ないのかもしれない。協力者、という言い方が正しいかどうか、劇場、照明・映像、音響、撮影。そして限られた時間で作品世界を共有できる仲間と。このような舞台が存在してそれを観に行けるのは稀有で有り難いことだなーと思います。


演劇のようなダンス。ダンサーが台詞を用いずに創る演劇。台詞を身体表現に置き換えた演劇。お芝居を途中でストップして音楽流しつつ『今の心情を身体表現のみで表して下さい』なんて感じでテーマに沿ったいくつかの作品からシーンを抜粋して組み立てたらそれっぽいものできるかな…


仕事がどうしても終わらなくてもう帰っても帰らなくてもあまり変わらないな…とか思いながらとりあえず家の前まで来て。車を降りて10何歩か進めば玄関なのだけれど動きたくない。仕事と睡眠の間に何でもいいから時間を設けたかった。窓を細く開けてシートを少し倒し、煙草に火を着ける。考え始めるとネガティブになりそうだから何も考えずに見上げた真夜中の空に綺麗な三日月。満月が相応しいような気もしたけど三日月だった。月明かりに目が慣れてくると吊るされた星たちが少しづつルクスを上げワルツのリズムで瞬く。シフォンのドレスを纏った踊り子たちが現れ、けらけら笑いながら踊りかけては照れ臭そうに下がっていく。踊り子のひとりが前に出て来て唇だけで語りかける。開演の挨拶のよう。だが暗すぎて何を言っているのかわからない。踊り子が更に重なり合うほどに近づいてきて、月に手を翳した。月は見えなくなった。瞬きが一層激しくなり、ショーが始まる。


6/6拍子のアリアは目覚ましのアラームだ。最初の一音から聴こえていたので一睡もしていないようにも思えるがそうではあるまい。アラームを止めると闇が息をひそめた。月はまだ見えない。午前3時の駐車場で。

まず大々的にネタバレが含まれることを先に書いておきます。これからこの作品をご覧になる方は読まないことをおすすめします。また、いずれこちらの劇団での再演もきっと行われることと思いますのでここで閉じてそちらを楽しみに待って、観劇後に再び開いていただけたら幸いに思います。


劇場に入るとフランキーがいる。そこに暮らしている。何時くらいなのか、時間も時刻もその観念すらなさそうに見える。ベッドに横たわり起きたと思うと机に向かい新聞に目を通し気になった記事を切り抜き、壁に貼り、酒を煽る。


激動の時代。2つの大戦から次の戦争へ。時代の変化をいち早く察知し警鐘を鳴らすのかそこに希望を見出すのか、そんな詩人だったのではないか。壁の切り抜きはこちらからは見えないがおそらく殺人事件を扱ったものが多いのだろう。そこだけ見れば(見えない)シリアルキラー的な人物を想像し、招き入れられた女性の身を案じてしまうところだがそうではない。申代表の口上…初演時よりは抑えめながらもやはり期待を大きく膨らませて幕が開く。


この作品の感想を書く上で戦争の話は欠かせない(と言いつつ初演の時の感想では触れていないけど。と、ついでに…その記事との重複はなるべく避けようと思っている)。当時の背景について詳しくないし、語れるほど戦争の知識もない。なので最小限に留めるが…メルフィが生まれたのが1932年。第二次世界大戦中に少年時代を過ごし、大学卒業後に徴兵を経験。劇作家として初の上演が62年、小鳥の水浴が最初に上演されたのが65年とのこと。アメリカがベトナム戦争に参戦したのは64年。アメリカの戦争映画といえばベトナム戦争を扱ったものが多いように思う。長期に渡って泥沼化し相手と直接向き合うことの多かったこの戦いがやはり印象深く多くの物語を産むのだろう。結果敗れたことも大きいだろう。


アメリカの歴史は戦争、殺戮の歴史。コロンブスによって発見されるところから始まるが当然ながら発見される遥か昔からそこにあって人々が暮らしていた。“発見”も“新大陸”も“先住民”も侵略者目線。殺害し居住地を奪い国家を奪い、バッファローに対して試みたように彼らを絶滅させようとさえした。


…などと書き始めてみたが、先に進めなくなった。実はアメリカの凶悪犯罪件数と戦争との相関関係について調べようとしたがこれがよくわからない。まずアメリカがひっきりなしに戦争をしていること。2つ3つ掛け持ちしていたりするから驚く。それにベトナム戦争が膠着して段階的に終着していったこと。そして第二次大戦終結以前のデータがないこと…これはちょっと意外だったが、考えてみれば無理もないことなのかもしれない。若い国家であり、アメリカは広大すぎた。人殺しで始まった国。最初の殺人を正当なものとするために、したがために今もそれを続けているようにすら思える。沼地や砂漠や山間部で起きた殺人事件の統計など伝わるまい。


思惑が外れてしまったがやはり戦地から帰還した兵士の心の闇は万国共通なのだろうか。正直なところ想像もできない。常に戦争をしているアメリカでは徴兵されれば実際に戦地に赴くことが多くなる。相手はテロ組織やテロ支援国家である。罪も恨みもない相手ではない。が、死刑制度は(何故か)日本では残っているが世界の多くの国では廃止されアメリカもその方向に向かっている。正当防衛は認められるべきだがだからといって殺していいというものでもない。いま日本で戦争してこいと言われて行く人間はどれほどいるだろうか。自分なら召集されたとしても受けることはない。それが罪になるとしてもだ。それをするためには自分の考え、身についたものすべて入れ替えなければ不可能だ。自分でなくなった自分は戦争が終わってどう生きていったらいいのだろうか。攻撃するための兵器はすべて廃棄するべきである。たとえテロ国家がそうしなくても。軍備拡張を訴える声が少なくともTwitter上にはある。それが一般的な世相を反映しているとはとてもとても思えないがその声の大きさは少々耳障りだ。一様に抑止効果だ思考停止だと馬鹿にした態度をとるがどちらも間違っているし思考停止はお互いさまだ。1歩進んだ訳でもない。間違った方向を向いて停止しただけ。他国が攻撃を諦めるほどの武力っていったいどんな量だ。それでも攻撃されたら?反論ならいくらでもあるがまずは毎晩枕元にピストル(まぁナイフでもいい)を置いて寝てみるといい。


元々の戯曲に特に戦争を示唆するものは見当たらない。深海洋燈版でも本編では触れていない。登場人物の背景にそれがあることを口上と映像で匂わせているだけである。思えば『KID』もチャップリンの映画をモチーフとしながら戦争を重要なテーマとして取り入れていた。注目すべきは次回作『戦争で死ねなかったお父さんのために』。その背景の部分をきっと描いてくれるだろう。


メルフィの戯曲との違いについて。この翻案がすべて深海洋燈のオリジナルなのかそれ以前に他の団体が上演した際に両者の繋ぎ目となるものがあったのかどうかは知らない(池島ゆたか氏の翻訳を読んでみたいが手に入らないものだろうか。来年にはいつもヴェルマを演じている里見遥子さんが演出する小鳥の水浴が控えているのでタイミングが合えば行ってみたい)。おそらく前者だと思うが、念のために。


自分の頼りない英文読解能力と辞書とグーグル翻訳機能で読み取ったあらすじに自分の感じたことなども混じえて先に書いておこう。ヴェルマの夜のバイト先のカフェテリアに、同じ時間帯にレジ係として入って来たフランキー。勤務終了間際に時計を気にしながら煙草を吸い本を読んでいる。お互いをチラチラと意識しながらやがて視線を合わせどちらからともなく近寄り挨拶をする。ヴェルマはとても饒舌で話し相手をずっと探していたかのよう。フランキーは酒場に行くことを提案するがヴェルマはそれを断り退出。暗転。


フランキーが外に出ると2月の夜の寒空の中ヴェルマは1人待っている。またもや饒舌に立ち話を始めフランキーは駅まで歩き出すよう促す。ヴェルマの話は母が自分に言ったこと、母そして兄(兄、弟の明確な区別はないが兄と判断)のこと。住んでいる世界が幾分狭いように感じられる。自宅の前に差し掛かったところでフランキーは家に誘うがヴェルマは母が待っているからと一旦は固辞し、すぐに母が待っていないことを思い出したと翻って階段に足を掛ける。


部屋に入り酒を飲みだすとフランキーはリラックスし感情を現し陽気に唄い、時には声を荒らげる。普通の男女の駆け引き…と言うには少々ぎこちなくちぐはぐな印象を受ける。ヴェルマは家族の話を繰り返し、楽しいと言いフランキーに好感を持っていることを告げる。フランキーも好意を口にし甘い言葉を使い誘うがヴェルマはそれを躱し時に怯えた様子も見せる。ヴェルマがタイプライターを見つけた辺りでフランキーは苛立ちを隠せなくなり家族の話をうんざりした様子で遮る。


実のところ、単純に自分の読解力の問題でフランキーの言っていることがわからない。どれくらいのテンションで、ヴェルマから見てどれくらい威圧的だったのか。売れない詩人でありアルバイトをして(あまり長続きしないのかも知れない)暮らしている自分に嫌気が差しているようにも見える。


それでもなお母のことを口にするヴェルマに対して逆上するフランキー。落胆し困惑するヴェルマがある秘密を切り出そうとすると、フランキーはまずコートを脱いで落ち着くよう提案する。そしてヴェルマがコートを脱ごうとした瞬間、そのポケットに新聞(その日の夕刊だろうか)が入っているのをフランキーが見つけ、その理由を問い詰める。フランキーはある事件の記事に目を留めそれを読み上げる─母親が娘の頭をハンマーとして使った─。耐えきれずに叫ぶヴェルマ『フランキー、あなたが怖い。誰もが、何もかもが恐ろしい!コートを返して!男の人と一緒に過ごしたことないの。母が知ったら何ていうか…』。フランキーはFから始まる4文字の言葉で母を罵る。腐っている…とも。部屋を出ようとするヴェルマを慌ててなだめ、手を触れ抱き寄せようとするがヴェルマは激しく拒絶しポケットブック(手帳?文庫本?コートのポケットに入れていたのか?)からナイフを取り出しフランキーに差し向ける。ナイフには乾いた血がこびり付いている。近寄らないで!私たちは結婚してもいないんだから。私に触れたら殺す。そして静かに今朝起きた出来事を話し始める…


朝起きると給料日の日のごちそう─コーヒーケーキとキャビア─が食卓に並ぶ。給料日前なのに。母は特別なごちそうだと言う。今日山のリゾートに恋人に会いに行くのだと。私が行くと母のチャンスを潰してしまうので行くことができない。私は毎週末母に給料を送らなくてはならない。コーヒーケーキをナイフで切り分けてキャビアをたっぷりのせて…


ヴェルマはナイフを取り落としベッドに臥す。これは母の血よ。何が起きたのかわからない。何も覚えてないの。私の頭はハンマーなんかじゃない… 


ヴェルマは眠気を訴えすぐに寝息を立て始める。フランキーはヴェルマのために詩を書く。


Dead birds still have wings

Dead birds Saddest-looking things

Because they are dead,on the ground

With there still wings,on the ground

Saddest-looking things

Dead birds with still wings

Dead on the ground

Insted of the sky…


朝になったらこの詩をごちそうするよ。バレンタインの朝に。



こんな感じ。補足すると…ヴェルマは話し相手を求め、家に戻る決心がつかずなるべく先送りしたい様子。母から虐待を受け行動を制限され昼と夜とバイトを掛け持ちして二人分の生活費を賄っている。父は幼い頃に家を出ていて、母に期待されその愛を一身に受けた兄?も結婚し連絡すら取れない状態。子供の頃いじめを受けて学校を途中で辞めている。学籍はともかく登校はしなかったのだろう。ゴッホを知らなかったりレズビアンの言い間違えなどは教養の無さを感じさせる。ルイーズパラダイスという名前はどうやら母の読み間違いをそのまま記憶してしまったもののようであり母もまたしかり。母は無職で愛する男ふたりに立て続けに逃げられたことで娘に対して傍若無人に振る舞っている。フランキーは結婚を希望していた彼女と別れてから女性との付き合いはない。それに相応しい人間ではないと感じている。家についてきたヴェルマに対して恋愛感情はさほど持っていないだろうが、このチャンスを逃すまいと顔色をうかがいながら再三ヴェルマを抱き寄せようとする。ふたりの思惑には大きなズレがある。自分が口説き落とそうとしている女性が母の話ばかりしていたらやはり苛つくだろう。酔いも手伝ってフランキーは語気も口調も荒くなり、半ば意地になったようにヴェルマの反応を見ながら口説き続ける。


深海洋燈版もほぼこれに沿っている。違っているのはヴェルマが部屋に入ったところから始まる(…と言ってもそこに至るまでにフランキーの日常生活、申さんの口上、そしてあの身体表現がある!)点。ここからはワンシチュエーションなのでそのような意図があったのだろう。が、それのみならず店でのシーンを描きたくなかった(セットがどうこうではなく)と考えられる節もあるのでそれはまたのちほど。


最も大きな違いはやはり独自の解釈によるラストシーンの追加。原作では描写されなかった部分を具体化した…という言い方もできるか。


この解釈のポイントはまずフランキーが初対面のはずのヴェルマのことをヴェルマ・スパロウと呼んだことと、そのやり取りがその後のどのシーンとも繋がっていないこと。とても不思議な出来事であるのに何の説明もなくその場で終わってしまっている。まず考えられるのは、その日かあるいは面接に来たときにその名をバックヤードの書類などで目にしたのではないか。印象的な名前だったのでなんとなく記憶していた…というもの。この説にはまったく無理はないが大きな問題がある。それをなぜ書いたのか。戯曲である以上台詞によって説明されなければならないし、ト書きですら何も触れていない。その経緯まで話してその名前でからかわれたエピソードに繋げるならわかるが、説明しない意味がわからない。意味のないシーンを描くはずはないのでこれはない。


ならば客としてそのカフェテリアで何かしらの形でそれを知ったのではないか。思わず口にしてしまうのはそれだけ頭の中で何度も反芻してきたからだろう。あるいはヴェルマに興味をひかれて他の店員から聞き出したのか。フランキーが?それよりはヴェルマの跡をつけて家を探し出した可能性も。フランキーはヴェルマに一目惚れしたかあるいは狙いやすい相手と感じたか、ヴェルマが働くその店を選んでアルバイトに応募した?あまり推したい説ではないが矛盾はない。フランキーはメルフィ自身を投影した人物であり、メルフィは現実と虚構の狭間に埋没してしまった人間であるとのこと。メルフィの実体験であるのか性癖を反映させた妄想なのかおおっぴらに言えないことを密かに作品に閉じ込めたのではないだろうか。


あるいはメルフィが病的な精神状態であるならばこの作品内での現実と虚構がシームレスに描かれていたとしても不思議ではない。矛盾のないことが決め手とはかぎらない。登場人物の台詞の中の嘘はもちろんト書きに嘘が含まれていたり言うべきことを言っていなかったりすることもあり得る。


フランキーは子供の頃にヴェルマと出会っていた。昨日今日ではなく子供の頃のヴェルマを知っていた。それが深海洋燈の解釈である。そこまでは何の無理もない。しかも先ほどの説よりも物語性を含んでいる。しかし表面上それを活かしているようには見えない。何を隠しているのか、何が虚構なのか。ヴェルマはラストシーンで何も覚えていない、何が起きたのか把握していないと言っている。何も確認せずに家を出て仕事に向かっている。ヴェルマが持っていた新聞記事をフランキーは母親が娘の頭をハンマーとして使った…というところまでしか読み上げていない。その続きは?…あまりにも意味ありげな伏線とは言えないだろうか。深海洋燈の解釈は作者の意図を正しく汲んでいるように思える。


ここから先は自分がまず感じ取った物語の筋と、それに意識を奪われていたために気になりつつも頭の隅に追いやっていた別の筋が存在していてどちらが正しいのか混乱しているところ。記憶が曖昧で単純な勘違いが含まれるかも知れないが…ここは自分なりにイメージを膨らませつつ両者を合わせた解釈を試みる。フランキー─メルフィの化身─の記憶に頼る部分も大きいのでそこに手を焼く部分でもある。


ヴェルマが今朝の出来事として話した内容は遠い過去のものである。フランキーがまだヴェルマの家の近所に住んでいて面識もなく、一方的にヴェルマを『見ていた』頃。フランキーが小さな花束と手紙を持ってヴェルマの家を訪れたバレンタインの日。ヴェルマは近所でも少し有名な無精で無職で暴力的な母親と二人で住んでいて、ヴェルマは酷い虐待を受け、時には泣き叫ぶ声がドアから漏れ聞こえることもある。虚ろな瞳で窓辺に座るヴェルマの姿。鳥籠から解き放ってあげたい。一緒に空を飛びたい。


フランキーはなかなかドアに辿り着かない。ヴェルマの悲しげな泣き声、やがて激しい物音、悲痛な叫び声。それまでとは違うひと際高い声、そして静寂。フランキーは恐る恐るドアに近づき、不安も恐怖心も小さな花束で覆い隠して、少しだけ笑顔みたいなものが作れるようになってフランキーはブザーにゆっくりと指を差し出す。指全身の力が指に伝わり長めに、何度か繰り返しそれを押す。ヴェルマが出てくることを夢見ながら、それが夢でしかないであろうことを覚りながら。


出てきたのはヴェルマの母だった。怒りなのか無理に感情を圧し殺しながらも威圧的にフランキーを追い払う。開いたドアの隙間からは何も見えない。何も見えない空間だけが目に入った。


翌日の新聞を待つまでもなくフランキーはその顛末を知る。母がそうであるように、父と兄に見捨てられたヴェルマを今度はその母に、ヴェルマにとって世界のすべてである母に見捨てられようとしていたことが発端であったことは久々に再開したこの日初めてヴェルマの口から聞いたことである。バレンタインの朝、コーヒーケーキとキャビアを食卓に並べて家を離れることを告げ、ようやく巡ってきたチャンスに有頂天になっている母をおそらくヴェルマは非難し、支配下の娘からの意外な反抗にうろたえ逆上した母はヴェルマの頭をハンマーにした─つまり、ヴェルマの頭を壁などに打ちつけた。ヴェルマがコーヒーケーキを切り分けるために手にしていたナイフを見て自分を刺そうとしているのと勘違いしたのかも知れない。ヴェルマの手から奪ったか、取り落としたのを拾ったのか、いつの間にかナイフは母の手に握られていた。そして…


左肩の下の傷はヴェルマが意識を失いかけたか母に縋りつくように前のめりにもたれ掛かった時に母が右手を振り下ろした状況を想像させる。


ヴェルマはあの日、あのバレンタインの朝に死んでいた。ヴェルマがポケットに入れていたのはその翌日の新聞の切り抜きである。だからフランキーはその記事に意味があると確信したのだ。ナイフの血は母のものではなくひどく時間の経ったヴェルマのものである。そしてフランキーはその記憶に辿り着きながらヴェルマにそれをはっきりと言えずに『ハンマー』の際に誤って母に刺さらないようにヴェルマが刃の部分をしっかりと掴んでいたために付いた血であると説明し、ヴェルマは自分が母を刺していないことを知り安心して戻っていった。


そうなるとフランキーがヴェルマを再三口説き落とそうとしていたように思えたのは誤解だった可能性が出てくる。彼女をつくる気のない男が同じ職場の女性に手を出そうとするのはどちらかといえば不自然だ。先に職場を離れようとするヴェルマを引き留めないのも、部屋に誘ったときに躊躇したヴェルマを置いて部屋に入る素振りを見せたのも実のところそこまでヴェルマに執着していないことを感じさせる。ヴェルマがヴェルマ・スパロウであることに気づいてからのフランキーの口説き文句…のように思えた言葉は『抱きしめさせてほしい』といったものだった。ということは、言葉通りか。君はもう死んでいるんだって伝えることもできず、ただただ抱きしめてやりたかった…


ヴェルマがそこにいることにフランキーが驚くシーン。人違いなのか記憶違いなのかフランキーは混乱しただろう。ヴェルマはこの時26歳であると言っていた。生まれてから26年経つと解釈しておこう。年齢については父が出ていったのが6歳の時。兄が19で結婚し家を出ていった。事件の時の年齢を示す手掛かりは無いが自分のイメージを上方修正し、兄との年齢差を大きめに取れば…例えば13~4歳くらいなら不自然ではないかも知れない。ヴェルマがどこで働いていたとしても二人の生活費を賄うことはできそうにない。父からの送金があったのか、愛人がいて援助してもらっていたのか、社会保障のようなものもあったのかも知れない。ヴェルマには教養も自分が稼いだ金でどれくらいのものが買えるかの感覚もなく、それがすべての収入だと考えていたのだろう。生まれて26年経ったヴェルマの見た目がそれに相応しいものなのか、大人びた化粧をした13~4歳のそれなのかはわからない。もしかしたら毎年、バレンタインの時にだけ姿を現すのかも知れない。先ほど書いた教養のなさも男性と二人で過ごした経験がないことも酒をほとんど飲んだことがないのも頷ける。母の話ばかりするのもそうだしヴェルマの幼さはこの解釈に導くためにメルフィが散りばめたヒントの数々ではないか。それらは物語全体の大筋とあまり絡まずに人物描写の彩りのようにうっすらと浮き立って見える。あとから付け足したと考えても違和感はない。他の可能性として同じ流れで揉み合う中ヴェルマが母を刺してしまった…とうのもあり得る。過去の事実としてのその記憶は失われ、毎年バレンタインの朝に蘇る記憶をその瞬間の出来事と取り違えてしまう。短くはない年月を何かしらの施設で過ごしその日から前に進むことを止めてしまい、見た目とは裏腹に未成熟なまま歳を重ねる。深海洋燈が選ばなかったストーリーだがホラーじみた救いのない解釈ではある。さらに言えばどちらがどちらを刺したとしても命を奪うには至らなかった場合も考えられ、いずれにしてもヴェルマが母を刺し殺したと思い込んでいるのは共通である。また、ヴェルマがナイフを持ち出してからベッドに横たわるまでのすべてがフランキーの妄想だと考える向きもあるだろうが、これはメルフィが散りばめたたくさんのヒントをすべて塗りつぶすものであり自分はそれを良しとしない。ひとつのポイントになるのは今のヴェルマがどのような存在なのか。どのような見た目なのか。カフェテリアで働いて多数の人と接する姿を描くのは想像の妨げになりかねない。そのシーンをカットした理由のひとつに数えられるだろう。


と、ここまで書いてなおこれがメルフィの意図通りなのか自信がない。だが確実に何かある。会話劇としてのその会話の中でのお互いの思惑、相手の反応に対する反応。複雑に感情が変化し、媚びるようでもあり悲壮的なほど必死に見えたり、失望だったり諦めだったり掴みきれないヴェルマ。と、ヴェルマの言動に困惑し真意を読みきれず思いやる様子も見せながらもおそらく頭の大半はヴェルマが自分に気があるのかベッドに誘っていいものなのか…そんなフランキーの会話の中からその裏側を想像し、そしてやがて明かされる事実ですべてが回収される。少なくとも表面上見えるこの作品の面白さはそのようなもので、会話の内容そのものの面白さという訳ではない。そして実のところ深海洋燈版はそこに主眼を置いていないようにも見える。2段階のオチがあるため会話が最初のオチへと導くための道筋の役割を強く担っていることがひとつと、オープニングの印象があまりにも強く、作品全体を鋭く突き通すような内容であり、そのテーマも背景も、血生臭さも2人の苦悩もヴェルマの悲しみすらもうっすらと感じさせるものであったこと。初演ではもう少しコミカルさを出そうとする演出があったが、どこか取り繕った笑顔のような印象が拭えなかった。特にヴェルマの緊張感、お互いの警戒心のようなものが終始感じられて二人の間に笑いがあっても観ている側には笑いはなかった。自分はこの二人の間で何か事件が起こるのではと想像していたくらいだから。軽妙洒脱な会話を楽しむといった雰囲気よりは一瞬の違和感を見逃せないスリリングな会話劇と感じた。


寺山修司が感激したという話は自分にはその程度がわからない(遺憾ながらアメリカ地獄めぐりは未読)。深海洋燈以前の上演はおそらく戯曲の文字をそのまま追ったものだと思う。そのあたりも含めてネットに情報を求めたが新たに得たものはオランダ?のテレビドラマの映像─ヴェルマの回想シーンがあったりして面白かったが如何せん言語がまるでわからない。どのシーンか掴むだけの能力すらない─と、エジプト?のラジオドラマの音声でこれは流石に1分でやめた。国内の上演でも翻案などの文字は見当たらないのでそうなのだろう。2人を演じた役者や演出家はフランキーがヴェルマの名を言い当てるシーンをどう解釈したのだろうか。寺山修司はその違和感を呑み込まずに感激したのだろうか。自分からするとこの作品は特別に面白いはずだ…という前提がある。深海洋燈が初めての公演で取り上げる作品が面白くない訳がない。寺山修司はなぜこの作品を日本に持ち帰ったのか。作家や団体への信頼感は重要で、もし信頼感もなく、まるで知らない無名の団体の公演だったら深く考えることもなく『今朝母を刺した』ことをオチとする作品だとしか思わなかっただろう。だが彼らは何かに気づいていた。それをシーンにしたのが深海洋燈版であり、翻案と呼んではいるけれどメルフィが書かなかったラストシーンを形にしたのだろう。それを書かなかったメルフィ。わかる人にだけわかればいい。見破られても否定も肯定もできる程度に普段他人には見せない自分をそっと溶け込ませておいたのだろう。そう問い質したらメルフィはどう答えるだろうか。最初からそのような構想を描いていたのかどうかも気になるところだ。あるいは素直な解釈しかない初稿があって新たな解釈の可能性に気づいたメルフィが比較的短い時間(つまりは多少辻褄の合いにくい部分が残ることを承知で)で加筆修正し、今のかたちに辿り着いたのではないか…そんな想像を働かせるのも楽しいこと…


ここまでは言わば脚本についての感想である。ここから演技、演出などについて書こうと思う。感想という意味ではここからが本番…と言いたいところだが少し時間が掛かり過ぎてしまった。このままでは次の公演が始まってしまうので早足で手短に進めていく。


まずオープニング。この作品をここまで特別なものにしたのは間違いなくここにある。演劇にダンスを取り入れるのはよくあることだがこのようなアプローチは見たことがない。ダンスという呼び名はあまりしっくりこない。『身体表現』なら間違いではないだろうがそれもすべてを表しきれてはいないように思う。どちらかというと演劇そのもの。身体表現による演劇。作品の世界を表現しながら物語の一端を担い、深海洋燈がどんな団体で何がしたいのか。とても詩的で、叙情的で叙述的で。(オープニングとしては破格の長さだけれども)限られた時間の中に永遠を生み出す。身体が千切れるかと思うほど激しく動き、また脈拍のみで踊って見せるような、あるいは腱のみで踊っているような、瞬きしたら見落としてしまうほど繊細で、でも恐ろしく力強い動きで観客の意識を文字通り一手に集める。変幻自在な照明がその力を最大限に発揮するのもこのセクション。人物を認識できるぎりぎりの明度での演技。真冬の朝の冷気を感じさせるのは照明の力なのか、それが演技というものなのか思わず肩をすぼめてしまう。ただ客席で観ているという感覚ではない。その世界に没入させてしまう、その度合いがまるで並ではない。大好きな人たちが凄いものを作っているのを見て喜ぶ自分がいて、物語の世界を楽しみ自分がいて、もうひとり、誰かがいる。どちらかと言えば少し居心地が悪くて例えば自分だけ教科書を忘れて受ける授業のような、それを3人に覚られないようひっそりと息を潜めて見ているような感覚。フランキーの目線に近いのかも知れない。


まず演劇を知らなければこれはできない。演劇向けに作ればいいなんて思っては無理。演劇の可能性を見なければならない。稽古に参加するのは絶対的に必要なことだろう。場合によっては脚本、演技、演出に口を挟む必要もあるかも知れない。演出家との信頼関係がなければ不可能だ。他団体などで比較すべきものはあるだろうか。自分が知っている範囲でしか言えないが例えばB機関などは舞踏家の方が主宰で演出をしていて実際面白いものを作っていると思う。点滅氏の演出は非常に優れているし彼自身の表現も素晴らしい。通じる部分はあるように思うが似てはいない。他のジャンル、例えばコンテンポラリーバレエなどを探したら近いものを見つけることができるのだろうか。このチームが特別なのは演出と振り付けをそれぞれ別の類い稀れな才能が、互いに強い信頼を持って分け合っていることだ。これは強い。史椛穂さんについて言うなら演劇を経験していること、ショービジネスの世界で華々しい実績を積んでいること、形にとらわれない自由で巾の広い表現力。何よりその表現の対象を見る目。物事を見聞きして何を感じて何を表現しようとするのか。どんなテーマを選ぶのか、あるいは与えられたテーマをどう解釈して掘り下げていくのか。身体ももちろん大事。でもお金を払っていちばん観たいものは頭の中にある。運動や競技ではない。身体能力も技術もかなり重要ではあるがやはり内側の部分が大きくものを言う…のだと思う。思うけれど、正直ダンス、身体表現のことはまったくわからない。ダンサーではないので。俳優ではないから演技のこともわからないが、俳優が演じるのは多くの場合自分らのような一般的な人間なので素人なりに意見は持てる。が、ダンスは銀河の涯てだ。口を挟む余地すらない。感覚的にわからないので謎だらけ。例えば、踊れなくなったダンサーは優れた振付師であり得るのか。それでも新たな振りを生み出すことはできるのか。また、それを伝えることはできるのか。ダンサーは鏡などを見なくても自分の動きを把握できるのだろうか。鏡があっても頭を激しく動かしている時、上を向いている時、後ろを向いている時、回転している時、どうやって自分を見たらいいのか…などなど。このオープニング含め史椛穂さんたちの出演シーンがどれだけ凄いものなのか伝えたいがために知ったふうなこと書いてみたけれど無理がある。なにせわからない!この魅力を言葉に置き換える知識がない。できないからこそ魅力的なんだとも言えよう。はっきりと言いたいことだけ言う。これまで12年ほどの観劇歴の中でシーンごとに見て屈指の名シーンだった。指を折る必要すらないかも知れない。人差し指1本立ててかざしてもいい。心が身体中、肌を突き破るほどに動き回る時間だった。他のどんなジャンルと比べてもいい。この上ない最高のエンターテインメント。演劇でこんな表現ができるんだったら…と考える。最近観たさまざまな作品を思い返してもし史椛穂さんがいたらどんなパフォーマンスを魅せてくれるのだろう。それこそ未開拓の新大陸を見つけたようなものだ。演劇はまだ面白くなる。


これはチームとしての評価であって個々に対してどうこう言うものでもないが3人がとにかく素晴らしかった。そこに加わったヴェルマもフランキーもやはり素晴らしかった。後藤さんのダイナミックな表現力は舞台のどこにいても目を引いて舞台全体に後藤色を染み付かせた。ちょっとでも気に入らないことがあれば笑いながら絞め殺しそうな異様な威圧感。想像するならわかりにくい駄洒落とか言って周りが気づいてくれないと長年連れ添った側近でも持っている鈎か何かで容赦なく突き殺す女王様。鳥で言うなら烏。松本麻実さんは天使のようなベイビーフェイスにショートパンツからすらっと伸びた長い脚が艶めかしい。鳥なら白鷺とか。その美しさに取り憑かれ迂闊に近寄れば骨抜きにされ啄まれる。その細く滑らかな白い指でタイピングされてはフランキーも詩作を諦めるしかない。


フランキーとヴェルマはそれぞれダブルキャストで行われたがいずれも見事に演じていた。どちらの役も表裏があり感情の起伏もあるのでどんな演技が相応しいのか、解釈次第で表情も口調も動作も大きく変わり得る役柄であり、あまり不正解はなく、それぞれの解釈を見せてもらう…そんな場だったと思う。実際皆さん個性的で一筋縄ではいかない人物像を楽しませてもらった。最初若干の違和感を感じながら徐々に深海洋燈版のヴェルマには相応しいのかも知れないと思わせてくれたのが小寺絢さん。私のヴェルマはこれだ!って感じの思い切りの良さ。自分の心の中のヴェルマに判断を委ねるような演技ではなかったか。武田治香さんは朝の出来語が解決していない、発覚すらしていない状況でのヴェルマの心境が色濃く出た演技で、後半染みのようにじわじわと拡がる悲しみの表現に心を撃たれた。淡海優君は勢いで押し切るタイプのフランキー。常に主導権を握って離さないところがフランキーらしい。段隆作君は繊細で少し神経質そうなフランキー。線の細さが役にあっていたと思う。フランキーにしてもヴェルマにしても演技をいいだの悪いだの言うのは難しい。どう見せたいのかっていうのも表面と裏側とその奥と、さらに無意識の部分だったりいったい何層なのかその区切りも曖昧で。ただただ想像しひたすら楽しませてもらった。


前半の分量と比べてだいぶ先細りしてしまったがこれで投稿しようと思う。なぜなら今日が『戦争で死ねなかったお父さんのために』の初日だからである。さすがにこのタイミングでは関係者ですらここまで読むことはなかろう。あと何日か早ければ宣伝を盛り込もうと思ったがその必要もなくどうやら大楽のみわずかに残っているのかな、ほぼ完売で全公演満席となる見込み。期待感はこれまで以上。演劇の新たな進化を体験しようと思います。