<ポイント>

○労働供給の制約強まる労働力希少社会に

○企業は賃金とともに商品の価値を高めよ

○付加価値生産性の高い仕事創る経営カギ

 けんじょう・えいこ 67年生まれ。アムステルダム大博士(経済学)。専門は労働経済学・社会保障論


日本では長く賃金が上がらない状態が続いた。賃金が上がらない状態が続くと、賃金は市場の需給の法則に従わないのではないかという考え方がでてくる。1世紀ほど前にも賃金が上がらない状況が観察され、賃金は市場の需給でなく人々の生存費に規定されるとも言われた。そうした中で、やはり賃金も需給が決めるという認識に切り替えさせたのが「ルイスの転換点」という考え方だった。

 筆者は2023年2月23日付本欄で「長く続いた『比較的安価な労働力を企業が手軽に利用できる時代』が今、大きく変わろうとしている」、そしてその変化について「いわば『ルイスの転換点』に近い状況に入りつつある」と書いた。
 図は、経済発展における無制限労働供給から労働供給の制約に直面し賃金が上昇し始めるルイスの転換点をヒントに、労働需要が一定の下で何が起きるかをモデル化したものだ。この四半世紀ほどは、生産年齢人口の減少にもかかわらず、企業はWLという比較的低い賃金で企業が求める(需要する)労働力をかなり確保できていた。そのことを「WLの賃金で雇うことができる労働の供給曲線」というWLの賃金率から水平になる直線で描いている。
 日本の生産年齢人口は1990年代半ばに減少に転じたが、就業者数はむしろ増えた。この間の就業促進策が成果を上げたとみられる。だが増加した就業者の多くは女性と60歳以上の非正規雇用の労働者だった。彼らの構成割合が高まったことは、平均賃金が上がらない要因にもなってきた。
 しかしこれからは、就業者数の増加も難しくなってくる。今や日本の女性の就業率は他の先進国と比べても遜色ないほどに高くなっているうえ、前期高齢者も22年からは減少しているからだ。労働供給曲線は反時計回りに回転し始める。
 そうなると労働需要側、特にL1~L2に位置する企業は、引き続き安価な労働力を求めるレントシーキング(保護された権益の確保)を展開する。例えば政治を通じて賃上げに要する補助金を求めたり、労働供給曲線を右にシフトさせるように未熟練の外国人労働者を求めたりする。前者では賃金は上がるが効率性と公平性が損なわれ、後者は賃金引き下げ要因となる。
 そうした動きがなければ企業は、これまでよりも高い賃金を支払い、様々な労働条件を魅力的にして、人を雇わなければならなくなる。この現象を労働力の不足と呼ぶのも間違いではないが、筆者は「労働力希少社会の到来」と呼んできた。
 日本ではルイスの転換点は60年代に生じたと考えられてきた。農村からの余剰労働力の供給が枯渇し工業部門の賃金が上昇するようになる。もちろんその間、市場での新陳代謝が進み、経営者の真の経営力が問われる局面に入ったのだが、結果として70年代に日本は1億総中流社会になった。
 では、労働供給曲線が反時計回りに回転する労働力希少社会で、企業はどのように対応すべきか。
 普通はここで「賃金を上げるために生産性を上げるべきだ」という話になるだろう。だが生産性が高くなければ高い賃金を払えず、「賃金を上げるために生産性を上げるべきだ」というのは、同義反復にすぎない。
 生産性という用語の意味を確認しておこう。生産性には物的生産性と付加価値生産性の2種類がある。現在は市場横断的に分子に比較可能な物の数量を置き、分母に労働量を置いた物的生産性を計測することは不可能だ。そこで分子に付加価値を置いた付加価値生産性で論じられることになる。分子に載る付加価値は、雇用者所得と営業余剰に分配される。つまり賃金を上げるには付加価値総額を上げるか、労働分配率(雇用者所得÷付加価値総額)を上げることが必要となる。
 賃金決定の仮説として、物的資本の考えを人に当てはめたゲーリー・ベッカー米シカゴ大教授の人的資本モデルが有名だ。人的資本モデルでは、教育や訓練により人的資本が高まり、それに基づき賃金が上昇すると考える。リカレント教育やリスキリングが重要という話のベースにはこの考え方がある。また学歴を教育効果の差を示すシグナルとみて、個々人は、教育投資の効果に関する自己選抜をし、進学、就職などを選択することが賃金の差を生むというマイケル・スペンス米ニューヨーク大教授のシグナリングモデルもある。
 さらに、それぞれの仕事が生産性を持っていて、経営者は学歴をシグナルとして、個々の労働者に仕事を配分している(人事を行っている)というレスター・サロー米マサチューセッツ工科大(MIT)教授の仕事待ち行列モデルもある。
 現実にはこれらの仮説が複合した現象として、賃金に差が生まれているのだろうが、23年の本欄での「生産性の高い仕事を経営者が創る経営力が問われることになる」との指摘は仕事待ち行列の考え方に基づく。
 80年に「ゼロ・サム社会」を発表したサロー氏が提案した労働市場モデルが仕事待ち行列だ。同氏は「限界生産物は個人にではなく仕事に固有のものである」と考えた。個人の背景となる「特性(教育、生得的能力、年齢、性、個人の習慣、心理学のテストの点数など)は、ある労働者を訓練してその仕事につけるようにする費用に影響する」。人事担当者は労働者の特性をみて、生産性の異なる仕事に彼らを効率的に割り振る。
 労働市場が無制限労働供給からルイスの転換点を迎え、右上がりの供給曲線の世界に入ると、企業は希望する人数の労働者を雇うためにはより高い賃金を支払う必要が出てくる。このとき、財・サービスの市場でも、生産費用の上昇に合わせて製品の販売価格を上げざるを得なくなる。
 すなわち労働力希少社会では、個々の企業は財・サービスの市場で、他社の製品と代替性の高い「コモディティー(商品、標準的製品)」ではなく、差別化された製品を販売し価格を変動させることで利潤を操作できるような市場環境、つまり独占的競争市場の様相を呈するビジネスを余儀なくされることになる。
 ブランド力を高めながら差別化を図り独占的競争市場で付加価値生産性を高める。そうした競争を勝ち抜かなければ労働力希少社会では生き残れない。経営者がいかに付加価値生産性の高い仕事を創出するか。労働力希少社会では経営力がこれまで以上に問われる。
 23年の春季労使交渉(春闘)では3.60%(厚生労働省)、そして24年の春闘では5.17%(連合5次集計)の賃上げとなった。物価上昇の影響もあるだろう。物価上昇を超える賃上げが実現するかどうかは、労働市場の逼迫度合いによるが、それは政治がどう動くかにも左右される。
 筆者は労働力不足というよりは労働力希少社会と呼びたい。労働力希少社会は労働力をより有効に活用してくれる人たちが、より多くの労働力を利用できる社会でもある。それは、働く人たちにとって希望の持てる社会になるはずである。