<ポイント>
○生産性向上を伴わぬ賃上げは持続しない
○大企業ほど賃上げに「やらされ感」が強い
○日本企業は「人に投資して育てる」意識を


 おの・ひろし シカゴ大博士(社会学)。専門は労働経済学、労働社会学、人材のマネジメント


賃金の上昇(賃上げ)が注目されている。2024年の賃上げ平均(連合集計)は5.17%で、33年ぶりの高水準を記録した。本稿では、今の賃上げが持続可能かについて検討したい。特に人的資本、生産性、賃金の関係に言及したい。
 経済理論では、賃金は個人の労働生産性に見合って決まると考える。労働生産性の向上により、労働者1人あたりが生み出す付加価値が高まり、増えた付加価値の一部が賃金として還元される。従って賃上げには生産性向上が絶対条件だ。生産性向上なしに賃金を上げた場合、付加価値が高まっていないので、企業にとってはそのまま財務負担となる。一時的に賃金を上げられても、継続ができない。


 では生産性を高めるにはどうすべきか。回答の一つは人的資本への投資である。人的資本とは個人がもつ能力、スキル、知識だ。人的資本は企業の最大の資産であり、成長に不可欠だ。人的資本が高まると生産性が高まり、生産力が増える。持続可能な賃上げの理想的な展開とは、「人的資本投資→人的資本ストックの増加→生産性向上→付加価値向上→賃上げ」である。そして付加価値創出から生み出した利益から人的資本投資に還元する。これこそが賃上げを持続可能にする循環だ(人的資本と賃上げの関係については拙著「人的資本の論理」を参照)。


 次に企業が賃上げを実施した理由をみてみよう。ここでは筆者が監修した「日本の人事部 人事白書2024」の調査データを一部引用する(「日本の人事部」正会員対象、24年3月実施、有効回答数590人)。
 まず調査では76%の企業が賃上げを実施したことが確認できた。賃上げ理由の最多の項目は「今後のモチベーションアップ」(69%)である一方、「業績や生産性の向上」(33%)はさほど多くない(図参照)。23年初めに労働政策研究・研修機構が実施した調査でも、賃上げ理由で最多の68%が挙げた項目は「社員のモチベーション向上・待遇改善」で、「業績(収益)の向上」は20%にとどまり、本調査結果と整合性がある。
 つまり日本企業の多くが、賃上げが社員のモチベーションを引き出し、ひいては業績向上につながると見込んでいるように読み取れる。これは前述の論理展開の逆になっている。賃上げは必ずしも生産性向上に結びつかない。また仮に賃上げが生産性を上げたとしても、人的資本に投資していないので人的資本のストックは増えない。要するに人的資本投資と生産性向上が伴わない賃上げは一時的な効果で終わってしまい、持続しない可能性がある。
 賃上げ理由を企業規模別に見ると、モチベーションの向上と相関はないが、「業績や生産性の向上」とは負の相関、「競合他社の賃上げ状況」「政府からの要請に対応」「税制で優遇されるため」とは正の関係があることが分かった。企業規模が大きいほど、理想的な賃上げの展開から遠のき、横並び意識と政府からの意向が強く働いている。大企業ほど「やらされ感」から賃上げしたように見える。
 経済学にも賃上げが生産性を高めるという「ギフト交換理論」がある。これは、企業が高い賃金を労働者にギフトとして与えると、ギフトを受け取った労働者はモチベーションや忠誠心を高め、見返りとして生産性が高まるという考え方だ。だがこのギフト交換理論を近年の賃上げに当てはめると、いくつか問題点がある。
 特に大企業に関して言えば、他社がやっているから、または政府から要請されたからといった「やらされ感」から賃上げを実施している傾向があり、労働者から見て素直にギフトとして受け止めない可能性がある。従って賃上げがモチベーションを高めるかは疑いの余地がある。ギフト交換が成り立たなければ、モチベーション向上にも生産性向上にも結びつかず、賃上げは無駄なギフト、つまり企業の財務負担として終わる。
 インセンティブ(誘因)の問題もある。労働者が努力して成果を上げたから賃金が上がるのであれば、生産性向上のインセンティブが高まる。だが努力も成果も変わらないのに自動的に賃金が上がるのなら、生産性を高めるインセンティブには結びつかないだろう。
 23年の「労働経済白書」には「持続的な賃上げに向けて」という章があり、生産性の向上、価格転嫁の必要性、賃金・評価制度の見直しをした企業の事例などが紹介されている。前述した理想的な賃上げの展開に沿った内容だが、出発点となる人的資本投資について触れていない点は残念だ。
 日本で人的資本投資がおろそかになった歴史的背景を見てみよう。1990年代のバブル崩壊を契機に、日本企業は著しくリスクを恐れるようになる。雇用を守ることを最優先する人事制度のもと、日本企業は人員削減を避け、過剰雇用を抱え込んだ。そして人件費を抑制するため賃金を据え置いた。結果、日本の実質賃金は91年から20年にかけて3%程度しか上昇せず、22年の平均賃金は経済協力開発機構(OECD)加盟38カ国中25位に落ち込んだ。
 失われた30年間で、人をコストと見て節減する意識が前面に出る一方、人に投資する意欲は後退した。同時期に、過剰雇用の反動として正規労働者の新規採用を控え、雇用調整を比較的容易に行える非正規労働者を増やした。しかし企業が非正規労働者の人的資本に十分に投資しなければ、国全体の人的資本のストックは減少してしまう。
 人的資本投資が低迷した結果、日本の人的資本のストックは確実に減った。学習院大学の宮川努教授、滝澤美帆教授によれば、日本の人的資本投資額の国内総生産(GDP)比率は、00年代の0.41%から10年代には0.34%に低下し、欧米諸国と比較して際立って低い。また人的資本投資の多寡と経済成長率には正の相関があることを示した。宮川氏らは、マクロで見ても生産性向上には人的資本投資が不可欠と強調する。
 20年代に入り「人的資本経営」のキーワードとともに、日本でも人的資本が注目されるようになった。だが人的資本に関して正しい認識が広まっておらず、賃上げと人的資本投資を同一視するような言説も見られる。人的資本経営を目指すのであれば、持続可能な賃上げについて、もっと議論してもよいのではないか。
 日本企業は、雇用を守り抜く社員重視の「ステークホルダー(利害関係者)資本主義」を誇ってきた。だが皮肉にも雇用を守る反動で人的資本のストックが減少し、生産性が停滞し、日本企業の競争力を弱めてしまった面も否めない。
 人を大切にすること自体は素晴らしい。だが人的資本への投資なくして賃金は持続的に上げられない。日本の人的資本投資比率は欧米諸国と比べ相当低く、どちらが本当のステークホルダー資本主義なのかわからない。日本企業の国際競争力を取り戻すには、人を守るという発想から、人に投資して育てる、攻めのステークホルダー資本主義に軌道修正することが必要だ。