レセプションにて
社会学の同僚と話をしていてふと思い出したことがら。
数年前シャーロッツヴィルにいる頃、Festival of Photographyというのがあって
写真家Ashley Gilbertson の展示・トークに行った。
当時イラクから帰ってきたばかりのGilbertsonの写真は、痛々しいイラクの傷跡が被写体で
ブッシュ政権下のアメリカのイラク介入以降、いつでも(今でも)バグダッドの風景は
小学生だった私の記憶とあまりに落差が激しくてショックを受ける。
私の覚えている街は炎に包まれてもいなかったし、死体が路上に転がってもいなかった。
薔薇園があり、クラシックコンサートが催され、斬新な近代化の勢いがあり。
野良犬はいたし、生活物資がなくなったりもしたし、戦死者の黒幕はあったけれども。
記憶というものは歪んだものなのではあるけれど、こういう問答があった。
ある年配の女性が「あなたは、なぜ日常風景を撮らないのですか、こういったむごたらしい
ことばかりではないでしょう?」という質問をしたところ、Gilbertsonはこう言った。
「外でここまですさまじいことが起こっているのに、食卓風景なんかとったって仕方ないでしょう。」
外でそこまですさまじいことが起こっていたら、食卓風景は、すさまじいことが
起こっていない場所での食卓風景とはまったく違うのに、と思った。
もしも一日一日、家族の無事がありがたいと思う状況であったら、みんながひとつの食卓を
囲めること自体が奇跡的だろうし、その価値を理解できる食卓などという風景の残像こそ
意味があるものじゃないのか、ということなのだけれども。
無残な死体を写すことよりもよっぽどイラク人の命の価値がわかろうものではないだろうか。
ここに人間として価値を守るべきである、壊してはいけないものがある、
そういう写真をとってこそアメリカ人の意識を変えることができる。
我々と違ってこんな風に無残な死体が転がっている場所のひとびとなのだ、
と思えるような写真は、こんなにもレベルの低い国なのだ、我々が(侵略して)
救ってあげなければいけないのだ、なんて恐ろしい国なのだ、ああ良かった我々の国でなくて。
そういう風に思う写真を撮れば撮るほど、アメリカの介入が正当化されるのは、
かつてヨーロッパ諸国がアフリカやアジアに侵略していった精神構造と全く変わらない。
イラクを被写体にする、「真実を伝える」、そういった思考を裏付けている事柄に
紛争を無くそうとすることがない限り、そのために然るべき考え方を変えるような作品でないならば、
芸術的価値は皆無だと思った。
「NYに帰ってきて、カクテル片手にパーティーなんかにいると、イラクにいる時のような
存在意義がなくなり、誰でもないひとになってしまう気がする」と彼は続けた。
イラクに育った子供にとって、あなたのくだらない存在意義なんてどうでもいい。