when the wall melts away
村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチを読みました。
→http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html
この一文、いいですよね。
"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it,
I will always stand on the side of the egg."
目の前に聳え立つ堅固な壁と、その壁に衝突して砕かれる卵があるとしたら、私は常に卵の味方に立つ。
ここでいう「壁と卵」は「システムと個人」という意味らしい。
これは「社会と個人」の対立じゃないのですよね。あくまでも「システムと個人」。
Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: It is The System.
私たちはひとりひとり、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはひとりひとり、デリケートな殻に包まれた、独特でかけがえのない、ソウル(魂)なのです。私も、皆さんひとりひとりも。私たちはひとりひとり、どういったかたちであれ、高く聳え立つ堅固な壁に行く手を阻まれているのです。その壁には名前がある。それは『システム』と呼ばれている。
壁は無機質だけれども、卵は生命と心を持っている。
壁は変ることがないけれども、卵は一刻一刻変化している。
そして、壁は強いけれども、卵は壊れやすい。
ムラカミの「壁と卵」は何かポストモダニティーを渡り歩く人間のイメージを捉えてるとも思います。
ただ、私はムラカミと違って芸術家ではないから、100%卵サイドにいる存在じゃないと思うんです。
大人ならシステム(壁)の中で動くひとのほうが多い。
いくら卵のままでいたくても、壁に組み込まれないといけない時があるかもしれない。
愛する家族という「卵」を守るために人間は壁になる時だってあるかもしれない。
、、すなわち、もしかしたら、その壁自体、魔法にかけられて壁になっちゃった卵かもしれないと思う。
文学は一時的であっても、魔法を解くものだと思っています。
魔法に解かれた壁は、卵に戻らなかったとしても、生垣に変わって、
枝葉にはやわらかい太陽の光が当たって、鳥が宿ってさえずりだすかもしれない。
私が物語を求めるのも、教えるのも、そういうオアシスを求める渇きがあるからだと思います。
壁自体を変えたら、セットアップ自体を変えたら、と
文学という情熱を追うひとは、多かれ少なかれ、そういう風にも思ってるのではないかと。
このスピーチについて、東京カイエの大切な友人がこういうエントリ を書いています。
彼女は同業者なので、とても興味深く拝見しました。
春樹のメタファーを借りて言うならば私が物語と物語学をやるのも、卵のそばにいたいからです。今まで卵(弱いもの)が正しいことを証し立てようとしすぎてきたかもしれない。でももうやめることにしました。そして私の場合は戦車やロケット弾のような分かりやすい壁より、狡猾で巧妙な、目に見えにくい卵のこわし方(ともすると卵の方からこわされることを望むようにし向けさえする)を見きわめたいという願いがあります。文学の方法の蓄積はそれを可能にしてくれています。そしてそれからの逃れ方、少なくとも小さな一つの方法を、私の生をつうじて見通してみたいと思っています。
現実は厳しく、壁と卵は衝突する。けど、狡猾で巧妙に壊される、という時もあるでしょう。それも大変興味深い。やはり、大切なのはどういう形をとったとしてもそのコンフリクトと破壊から眼をそらさないでいることじゃないかしら。せめてその絶望的なシチュエーションの中にであっても真実という厳しい美(Truth is Beauty, Beauty is Truth)を見つけることができるかもしれない。