アンジェリーナというヴェール | south coast diaries

アンジェリーナというヴェール

 ういえばこのあいだ、クリントイーストウッドが監督をつとめたThe Changelingという映画を見に行きました。


                  sunshine from irvine


誘拐事件があって、帰ってきた子供はわが子ではなかった!という話はおもしろそうだとも思ったが
基本的には単に美しいひと(アンジェリーナジョリー IN  20年代のフラッパーガールファッション)
が観たいだけでした。

あ、それと、このインタビューを見たからというのもある。


       



映画自体は長いんですよね、2時間20分ぐらい?だけどそれを持ちこたえるだけの美貌ってのは何なの。
復讐劇というのはおもしろいものだし、どうしようもなく頭の固い警察の悪役もなかなか。

しかし、あとで、やっぱりこれは白人の話なんだということをともすると忘れがちだと思った。

20年代のL.A.P.D.のひどさに立ち向かったヒーロー的女性の話なんだけども、
なぜこれはアンジェリーナジョリーで、たとえばハリーベリーの話じゃないの?という。
あるいは、映画の中で、同じくL.A.P.D.に立ち向かった売春婦がアンジェリーナジョリーを
かばう役で出てくるんだけれども、なぜ彼女は美しくなくて、なぜこれは彼女の話じゃないのか?という。
オペレーターをやってるシングルマザーなのになぜか品のいい郊外に住んでるし。
これは歴史的には食い違ってますね、郊外で大々的に住宅が開発されるのは30年代後半ですから。

基本的にフェミニズムの角度がすごく強くて、それはいいんだけども、
アメリカでのフェミニズムの初歩的な問題として「女性」と言った場合にそれが実は
「世の中すべての女性」ではなくて「中流で白人の女性」を指す傾向がある、
というのは、アカデミアでは70年代後半ぐらいから言われてきてて、
白人女性がフェミニストである場合には特に気をつけないといけない、というのが常識で、
更にいえば2008年においては、グローバルな視点から見た貧困層の女性
(メキシコ人とか東南アジア人とか違法労働者みたいな立場の人たちは?って)
についても考えましょう、というところまできてるのだけれども、やはり一般の認識としては
そういうのは難しいんだろうな、と。

映画を観てる間に、いろんなイデオロギーがつくられてるわけですね。
白人の中流女性の理想像はいい母親であること、とか、従ってヘテロセクシャルであること、とか
(だって20年代ですよ?ゲイの女流作家が時代を謳歌してたジャズエイジですよ?)
売春婦の話なんていうのは取るに足らない、とか、黒人なんてひとりも出てこない、とか
そこで考えて欲しいんですけども、日本人なんてさらにどうでもいい世界ですから。

日本でこれが放映される時、アンジェリーナの美しさとか母親の愛の美しさ、
に気を取られるのみのひとは多いと思うんだけども、私含め、それってちょっと馬鹿だよね。

こういうところで、Prop8をYes書いちゃうような心理(ゲイカップルの結婚?
子供できないし?こういう話がありえないし、とか)が作られるという事実。
そして、1929年以来の大恐慌にいる我々がそれを予期させない1928年の話に見入るという現実逃避。